青龍や朱雀が都を守った!?
ⅰ 陰陽師が活躍した京都
「戻橋」と書かれた橋のたもとに、何やら妖しき人影。
鎌のようなものを手に持ち、こちらの様子をうかがっています。
ここは京都市上京区にある晴明神社、橋の名前は「一条戻橋」と言います。
謎の人物は、陰陽師として活躍した安倍晴明の部下、式神(しきがみ)として霊的な力を持つ鬼神でした。
夢枕獏が小説『陰陽師』で描いた長身で色白の美男子・安倍晴明は、当時の妖しい闇の世界で活躍し、その人気はアニメや映画にもなりました。
実在の陰陽師は、今の霞が関のお役所のように、中務省(なかつかさしょう)の陰陽寮という職場で働く官職でした。天文学、暦学、易学などを担当する専門家集団だったようです。
今回お届けする『青龍や朱雀が都を守った!?』は、その陰陽道や五行思想の中にある四神相応(しじんそうおう)という考えから選ばれた平安京がテーマです。
国を守る四つの方角、玄武(北)、白虎(西)、青龍(東)、朱雀(南)はどんな場所が選ばれたのでしょうか?
ⅱ 玄武、白虎、青龍、朱雀
「鳴くよ(794)ウグイス平安京」。中学生や高校生の頃、平安京遷都の年号をそんな風に暗唱した方もいると思います。
この写真は、794年に都が造られた時の朝堂院を、遷都1100年を記念し平安神宮に再現したものです。
実は平安京ができる10年ほど前、天皇は長岡京(現在の長岡京市)に都を計画しました。
ところが側近・藤原種継が天皇の実弟・早良親王に暗殺されるという事件が起き、捕えられた早良親王は無実を訴え絶食死。
その後、相次ぐ身内の不幸や天変地異も重なり、陰陽師は早良親王の怨霊が長岡京に祟っていると告げます。
そうして決まった新しい四神相応の都づくり。
都を中心に、北の玄武を「船岡山」、西の白虎が「山陰道」、そして東の青龍に「鴨川」、南の朱雀は「巨椋池」が選ばれました。
よく知っている名前もありますが、あまり聞きなれない名前もありますね。
さて、四神の現在は、いったい!?
はじめは、北の玄武「船岡山」です。
平安京創世館に展示されている当時の模型を見ると、東西4.5km、南北5.2kmの都の北にこんもりとした山々が見えます。
ここに標高112mの船岡山がありました。
当時の朱雀大路(現在の千本通)を歩いて見ると……
丸太町通を過ぎた辺りで、北の方角に小高い山が見えてきました。
さらに鞍馬口通まで歩くと、船岡山は少し東の方角らしく鞍馬口通を東へ。
すると、通りの北側の細い路地から緑の一帯が浮かび上がってきました。
これがどうも船岡山らしいんです。
「らしい」と書いたのは、第一印象は山というより丘のように感じたからでした。
あれが「玄武」? 火山活動の切り立った玄武岩の山を想像していたのにイメージは違っていました。
山を上ると織田信長を祀る建勲(たけいさお)神社の狛犬が目に飛び込んできました。
頂上は公園になっていて、五山の送り火の「大」の字がくっきりと見えます。
南の方角は視界がひらけ、広い京都盆地は京都タワーまで一望できます。
天皇のお住まいから朱雀大路までずっと見渡せる船岡山は、まさに平安京の管制塔のような役割をしていたのかもしれません。
山を下りて東へちょっと行った玄武神社でこんな石像を見つけました。
脚の長い亀に蛇が巻き付いた姿をしています。
伝説の霊獣の風貌は、意外にも親しみやすく、どこか穏やかな丘の船岡山に似ていますね。
次は、西の守護神・白虎の「山陰道」です。
平安京ができた頃、都には地図のような東西に一条から九条まで39本の道、南北は東京極から西京極まで33本の道が碁盤の目のように張りめぐらされていました。
現在の五条通(国道9号線)が当時の山陰道とつながっていたらしく、堀川五条の交差点辺りから西へと歩いて見ることにしました。
西大路五条、高架の阪急京都本線……と当時の都の東西を1/3ぐらい歩いただけなのにずいぶん時間が経ったような気がします。
そして、ようやく見えた葛野(かどの)大路五条の交差点。
「葛野大路五条」と書かれた表示板が見える、ここがかつての「西京極大路」都の西のはずれです。
山陰道はここから西へとずーっと続いていたんですね。
この道は中国地方へつながる官道として都に攻め入る敵を防ぐための、重要な拠点だったようです。
白虎を祀る松尾大社には、寅年にこんな大きな絵馬が飾られていました。
白い虎は、インドでは神の使い・ホワイトタイガー。もしかしたら、ホワイトタイガーは白虎の化身だったかもしれません??
そして東を守るのは、青龍の「鴨川」です。
鴨川は、標高896mの桟敷ヶ岳付近を源とし桂川と合流するまで京都市内を南北を流れていきます。
平安京の東の端っこ、「東(ひがし)京極」は、鴨川から西へ500mほど離れたところにありました。
水量が豊富で川幅の広い鴨川。
都の東から攻めてくる敵を防ぐのに鴨川を青龍に選んだのは納得です‼
少し東にある清水寺の西門に、青龍像がありました。
龍は、十二の干支の中でも、ただ一つ架空の生き物。
その体は、角は鹿、頭は駱駝(らくだ)、腹はみずち、目は鬼、耳は牛、うなじは蛇、鱗は鯉、爪は鷹、手は虎……中国の書物にはそんな風に龍が描かれているそうです。
京都観光に出かけると、様々な神社やお寺で龍を見かけることがあります。
青龍が都の繁栄を願う神様になっていった様子はこんなところにも伺い知ることができました。
(写真は、下鴨神社、妙心寺、護王神社の龍です。)
最後は南の方角を守護した朱雀の「巨椋池(おぐらいけ)」です。
金色に輝く鳥は、金閣寺の鳳凰。伝説の鳥・朱雀は、この鳳凰の姿に描かれることが多いそうです。
でも朱雀と鳳凰は、どちらも想像上の鳥ですが別のものだとか。
東京にも江東区の若洲公園にこんな朱雀像があります。
陰陽五行説では火を操る美しい赤い鳥。朱雀は、大きく広げた強靭な翼で悪霊を追い払ったと言われています。
ところで、その朱雀に選ばれた巨椋池ですが、あまり聞きなれない方もいると思います。
平安京ができた頃、都の南に東西4㎞、南北3km、およそ800haにわたる大きな池がありました。
巨椋池の南にはそれまで長く都だった平城京があったので、そばを通る街道は新しい都との重要なルートにもなっていました。
平安時代の後半、紫式部が「源氏物語」を描く頃の巨椋池は、風光明媚な場所として貴族たちの別荘にもなっていたところです。
京都が都だった時はずっとあった巨椋池ですが、ある時に消滅してしまいます。
それは、1933年(昭和8年)から9年の歳月をかけて進められた干拓工事。池は干拓田へと変貌しました。
現在は、地平線まで田んぼや畑が続くかつての巨椋池。
戦後の食糧難で、京都や大阪の台所を支える大きな役割を果たしました。
唯一、豊潤な水をたたえた排水機場にその面影を残すだけとなっています。
ⅲ 編集後記 – 青龍や朱雀が都を守った!?-
御所のそばにある護王神社には、玄武や白虎の四神の額が掛けられています。
そしてこんな一枚の絵もありました。
それは、桓武天皇と和気清麻呂が東山にある将軍塚から都の場所を決めた時の様子を描いたものです。
実は、平安京がある京都盆地は広く長く伸びた扇状地の地形をしています。
例えば、北の方角にある上賀茂神社の標高は85m、京都駅は標高は20mです。およそ9km離れた2つの場所は、その差65mの傾斜を緩やかに下って行くんですね。
歩くとほとんど高低差を感じない京都の街ですが、緩やかな扇状地は鴨川や桂川、そして宇治川や木津川と豊かな水を北から南へと運んでいきました。
時に大きな猛威をふるった守護神たちですが、北の山々から吹いてくる乾いた風が四季の寒暖を生み、その恵みは京料理やおばんざいに代表される京の食文化を育んできました。
水と京都の関わりは本当に切っても切れない関係で、それは食文化だけでなく祭礼やくらし、ものづくりなど都の歴史をとても多彩なものにしていったように感じます。
794年の遷都から1869年に太政官が東京に移されるまで、都は1075年間、京都に置かれていました。
世界には、1000年続いた都って本当に僅かしかないんですよ。
古代ローマ建国(BC753年)から共和制ローマ、帝政ローマと、都がコンスタンティノープルに移されるまで約1000年続いたローマ。
シアグリウス王朝が464年に西ローマ帝国から独立し、フランク王国・メロヴィング朝の時代や、百年戦争でイギリスに占領されながら1000年以上フランスの首都になっているパリなど……。
1000年続いた京都の都。街を訪れると、今もいろいろなところに青龍や朱雀の都市伝説を見つけることができます。