京都のグランドデザインを描いた男
ⅰ 京都府庁旧本館。
今回のブログのスタートは、この堅牢な西洋建物からです。

明治37年(1904)に竣工したネオ・ルネッサンス様式の京都府庁旧本館です。

西洋の石造建築と半円アーチ窓にラッセント窓。
建物の中を歩くと、日本にいる感覚がなくなるような異国情緒を満喫できる建物です。
桜の季節になると、中庭に咲くヤマザクラやシダレザクラをお目当てに花見客が途切れることがありません。


建物を設計したのは、京都府の技師だった松室重光。
明治の新しい時代に、京都に西洋建築を取れ入れた建築家でした。

松室はその他にも京都ハリストス正教会聖堂など、後世に語り継がれる建物を幾つも設計しています。
ところで、その松室が府庁舎の設計にかかっていた時期、もう一人の技師がその後京都の命運を賭ける大きな事業に立ち向かおうとしていました。
ⅱ 荒廃した京都、そして復興
その男の名前は、田邊朔郎(たなべさくろう)。

これは、京都市上下水道局に残る彼の若かりし日の写真です。
きりっとした鼻筋や口元。襟を立てたスタンドカラーのシャッ、髪の毛をあまりかまわない様子で、どこか文学青年のような、また明治人の秘めた闘志を感じます。
明治16年(1883)、工部大学校と呼ばれる現在の東京大学工学部を卒業した田邊は、北垣国道・京都府知事に請われ京都府の御用掛となりました。
年譜を紐解くと、京都は彼と共に大きく近代化へと舵を切っていく様子が伺えます。
その背景には何があったのか、田邊と彼を取り巻く明治人が成し遂げたドラマのほんの一端をご覧ください。
少しだけ時を遡って、慶応3年(1867)10月14日。15代将軍・徳川慶喜は現在の京都市中京区にある元離宮二条城・大広間に雄藩の大名たちを集めました。
上段の間に座る慶喜は、徳川家を支えてきた大名たちを前に、260年以上続いた江戸幕府を閉じることを伝えます。

長く続いた武士の時代が終わりを告げた瞬間でした。
そして新しくできた明治新政府。

元号が明治に変わった明治元年と2年、天皇は京都から東京へと行幸します。
この絵は、その行幸の様子。(明治神宮外苑・聖徳記念絵画館 蔵)
当時、天皇に親しみのない江戸(東京)の民衆は、配られた樽酒や屋台、山車にお祭り気分だったと言われています。
一方、天皇がいなくなった京都。公家や官吏たちも東京に随行し、有力商人達もこぞって京都の街を離れてしまいました。
江戸時代に40万人を超えたこともあった京都の人口は、あっという間に30万人を下回るほど減少してしまいました。
都市存亡の危機。初代・知事の長谷信篤、2代・知事の槇村正直は、市民と一緒になって街を盛り返そうと奮闘します。


明治2年、「番組」と呼ばれる「町」を単位とした64の日本初の小学校が誕生、明治5年に女子教育機関として新英学校女紅場を開設。
近代産業の先駆けとなる理化学研究機関の「舎蜜局」(明治3年)や島津製作所(明治8年)ができたのもこの時でした。
京都の伝統織物は佐倉常七らをフランスに留学させ、ジャカードやバッタンの新しい技術を導入します。


明治5年に開催された第一回京都博覧会に京舞井上流の「都おどり」が披露され、現在の花街の形がつくられていきました。
(写真は、京都市学校歴史博物館、島津製作所、機織り工場、都をどり。「京都文化遺産」資料から https://kyoto-bunkaisan.city.kyoto.lg.jp/kyotoisan/nintei-theme/meijinoayumi.html )
ⅲ 北垣と田邊
明治18年(1885)、知事の北垣国道が琵琶湖疎水計画を田邊朔郎に指示したのは、そんな復興ムードの最中でした。
これは、琵琶湖疎水計画が進められた時の全体図です。文字が小さくて見づらいと思いますが、右上のブルーの部分が琵琶湖。そして地図の真ん中辺りに「蹴上(けあげ)」という地名があります。

その距離、およそ7.8km。疎水計画は、この区間を中心に第一疎水と分線、また明治41年に完成した第二疎水へとつながりました。
でも、どうして遠く離れた琵琶湖から京都は水を必要としたのでしょうか?
そこには、意外な事情があったようです。

琵琶湖は、滋賀県にある日本最大の面積と貯水量を持つ湖です。
広さは、669k㎡。ちょっとピンときませんが、洞爺湖や浜名湖、十和田湖の10倍ぐらいの広さです。
実は琵琶湖から水を引くことは、京都の長年の願いでした。

☆ 鴨川から水を引いた高瀬川(一之舟入)
有名な高瀬川をつくった豪商・角倉了以も、江戸時代の初め、琵琶湖から水を引こうとしていたようです。
しかし工事の大変さに断念、角倉はすぐ隣を流れる鴨川から水を引くことにしました。ただ、その鴨川から安定した水を供給することは難しかったようです。
川には水を一定のところに留めておく設備がなく、大雨が降ると付近や下流の淀川まで水害に襲われました。
その反面、夏は晴天続きで渇水。近隣の農家は鴨川の水を水車で利用していましたが、取水が困難な時もしばしばだったとか。
豊富な水を安定して京都市内に流しやがては産業振興につなげたい、空前の大事業はこうして始められました。
2枚に切り取っている地図は、琵琶湖から南禅寺までの工事の様子です。琵琶湖から水を取って「南禅寺船溜」と赤字で書かれている辺りまで水を運ぶ計画でした。

工事の資金には、明治天皇が東京遷都のおり京都に下賜したお金が使われ、それでも足りない分は、債権の発行や寄付金、市民への税で賄いました。
工事費は、実に国家予算の1.8倍まで膨れ上がったといいます。
田邊がこの計画を知ったのは、学生の時でした。卒業論文に『隧道建築論』、『琵琶湖疎水工事編』を選び猛勉強。
明治16年(1883)に大学を卒業し、念願かなって琵琶湖疎水の担当になったんですね。
一方、計画には内外から批判や不満の声が大きく、20歳ちょっとの若者には苦難の連続でした。
あの『学問ノススメ』を書いた福沢諭吉が、当時の田邊を「一身にして二生」と讃えたほどです。

工事の中でも大変だったのは、琵琶湖取水口からほどなく行ったところにある長等山(ながらさん)の第一トンネル東口から第二トンネル西口の2,436m。
日本の掘削技術では不可能に近いと言われていた場所です。
当時の工事の記録には、「明治21年(1888)10月5日深夜、65名の人足たちが土砂の崩落によって閉じ込められる。翌々日7日に無事救出。」などと書かれています。
様々な事故の中で、再び起こる建設反対の声。田邊は、住民たちと何度も何度も対話を重ね、その不安の解消に努めました。
そして、明治23年(1890)、着工から5年の歳月を経て琵琶湖第一疎水は完成します。

前人未到の大工事は、京都を蘇らせました。琵琶湖から運ばれてきた水は農業や生活用水に、そして疎水を利用した舟運も活発になります。
影響が一番大きかったのが、水力発電。


☆ 蹴上発電所の第一号と動力機
実は、当初の計画で水車動力を考えていた知事の北垣は、アメリカのアスペン水力発電所などを視察した田邊の意見を受け、水力発電に方針を変更していました。
疎水完成の翌年・明治24年(1891)には、最大出力・4500kWの蹴上発電所が稼動を始めたのです。
この数字は、現在の関西電力・奥多々良木発電所(193万kW)、「黒四(くろよん)」の愛称で親しまれる黒部川第四発電所(33万kW)の1/100にも満たっていません。
でも、日本で初めての水力発電は、明治28年(1895)、日本で初めての一般営業用電車を走らせることになります。
それがあのチンチン電車。市内に張り巡らされた路面電車は、1969年には路線距離68.8km、駅の数163駅に膨らんでいました。
明治の時代が産声をあげた時、衰退しかけていた京都の街は、こうして近代化への復興を遂げていったんですね。
ⅳ 編集後記
琵琶湖疎水の難工事と蹴上発電所を完成させた田邊は、その後大学に戻り、濃尾地震の研究や北海道の鉄道敷設計画などに従事しました。


☆ 岡崎疎水の十石船、南禅寺水路閣
明治33年(1900)にはシベリア鉄道を視察、欧州や北米の土木施設の実態を国に報告することも度々だったといいます。
現在も、田邊たちがつくった疎水の水は生活水や産業水として利用され、観光名所として欠かせない人々の憩いの場です。


☆ 哲学の道、蹴上インクライン
インクラインの船溜まり近くに、こんな碑があります。
「疎水工事殉職者弔魂碑」。
明治35年(1902)、田邊が私費を投じ建立した碑でした。

碑には、琵琶湖疎水工事で亡くなった17人の名前が刻まれています。
かつて、時代の要請に毅然と立ち向かい国難を我が事として闘った明治人たち。
京都は、そんな明治の人たちに出会える街でもあります。
