宵山の贈り物
ⅰ 夏の夜
8月16日19時、如意ヶ嶽(にょいがたけ)の西の前峰に住職の読経の声が響きます。
時計の針が20時に近づく頃、「一文字(用意は)ええか」、「字頭ええか」の声。
各持ち場から、「ええで」「よし」の掛け声が。
大文字山(だいもんじやま)に『大』の火文字が点火される瞬間です。
それから5分ほど……松ヶ崎の真っ暗な山肌に『妙』の字がくっきりと映し出されました。
やがて送り火は、「法」、船山の「船形」、大北山の「左大文字」、曼荼羅山の「鳥居形」と続きます。
お精霊さん(おしょうらいさん=死者の霊)を、無事あの世に送り届ける松明(たいまつ)は、京都の夏の風物詩です。
☆広沢池の鳥居形と灯篭流し
そう言えば、京都には五山の送り火の他にも夏の夜の催しが幾つもあります。
鴨川納涼床、嵐山の灯篭流し、大覚寺の観月の夕べ、鞍馬の火祭‥…。
これからご紹介する 祇園祭の宵山もその一つです。
今回は、7月17日に行われた山鉾巡行の宵山を訪ね、夏の京都の夜を体験しました。
ⅱ 宵山と宵々山、宵宵々山
少し聞きなれない言葉ですが、順番に「よいやま」、「よいよいやま」、「よいよいよいやま」と読みます。
祇園祭が開催されるのは、毎年7月1日から7月31日の一か月間です。その中で観光客の一番のお目当ては、7月17日の前祭(さきまつり)と、24日の後祭(あとまつり)の山鉾巡行です。
☆羽を広げた「蟷螂山(とうろうやま)」のカマキリ
前祭の23基、後祭の11基が四条通、河原町通、御池通を巡行する姿は壮麗です。
長い京都の歴史、タイムスリップしたような山と鉾のいでたち、絢爛豪華な装飾品に思わず見惚れてしまいます。
そして、巡行の3日前から山鉾町内では前夜祭のようなひとときがあります。
これを、『宵山』と呼びます。
前祭だと巡行日17日の前日16日が「宵山」、前々日の15日が「宵々山」、前前々日の14日が「宵宵々山」と呼んだりします。(後祭24日の宵山期間は、23日、22日、21日です。)
ⅲ 宵山の風景
7月15日、「宵々山」の日。
陽が沈みきらない夕暮れ時、町内の山や鉾は飾り付けを終え、駒形提燈に灯りが燈されました。
岩戸山町の町内も、巡行を待つ山に駒形提燈と真松(しんまつ)が飾られていました。
岩戸山は、天岩戸(あまのいわと)を開き天照大神(あまてらすおおみかみ)の出現する神話をテーマにしています。
巡行の日は、真松の下に御神体のイザナギノミコトも登場します。
山や鉾のまわりを飾る織物を懸装品(けそうひん)と呼ぶそうです。宵山の夜は、懸装品をすぐそばで観られるのも愉しみの一つです。
しーんと静まり返っ路地の奥に、巡行を待つ木賊山がいました。
木賊は一般に聞かれるトクサという草のことです。
世阿弥の謡曲「木賊」にちなんだもので、誘拐された子供が大きくなって父親に会うために故郷の信濃に出かけたお話が出てきます。
トクサを刈っている老人と出会った若者は、一晩を老人の家に泊めてもらいます。
若者は老人から我が子が好きだったという舞を見せられ、昔の記憶が蘇えり、ついに老人が父親であることに気づくのでした。
そう言えば、木賊山には老人の右手に、草を刈る鎌がしっかりと握られていました。
山や鉾には、一つ一つ伝説や歴史の物語が残されています。
晴れやかな巡行の日は、勇壮な姿と絢爛豪華な衣装や懸装品に見惚れてしまうので、宵山の夜に山鉾誕生の歴史に触れてみるのもいいかもしれません。
船鉾(ふねほこ)の町内まで来た時、大きな人だかりができていました。
″ 出陣の船 ″と言われる船鉾は、後祭の ″ 凱旋の船 ″ 大船鉾(おおふねほこ)と同じ鉾が船の形をしています。
出陣というぐらいなので、形はまさに軍船。
船首には、あらゆる困難を乗り越える「げき」と呼ばれる想像上の水鳥があしらわれています。
ところで、宵山の晩、必ず聞こえてくる、どこか懐かしい歌声があります。
それは、「コンチキチン」という鐘や笛、太鼓の音、わらべのかけ声です。
♪安産のお守りはこれより出ます 常は出ません今晩かぎり 御信心のおん方さまは 受けてお帰りなされましょう♪ 蝋燭一丁、献じられましょう♪
とても蒸し暑い宵山の夜、汗を拭きながら、粽(ちまき)やお守りを売るわらべ。
山鉾町を行き交う人たちは、つい粽を2つ、3つと買ってしまいます。
四条通に出ると、長刀鉾(なぎなたほこ)と函谷鉾(かんこほこ)を見つけました。
オフィス街の高い建物にも負けない夜空に伸びた鉾。
函谷鉾は、地上から鉾頭まで24mにもなります。
重さが12トンもあると言われ、鉾を引っ張る車輪の大きさは2m近くになるそうです。
巡行の日に、交差点で鉾の方向転換をする「辻回し」は山鉾の見せ場の一つになっています。
鉾の車輪は構造上方向転換が無理なため、路面に青竹を引き綱を横から曳いて車輪を滑らせるんですね。
ⅳ 編集後記
ゲリラ豪雨に何度か見舞われた宵山の日、山鉾町も見物客も大変でした。
それでも巡行の日は、朝から青空が覗き、八坂さんの祇園精舎の守護神が見守ってくれていました。
今年は「鉾2番」になった月鉾(つきほこ)がやって来ました。
宵山の夜、鉾頭の ″ 月 ″がきらりと光っていた月鉾。
あの「月」は江戸時代の天明や元治の大火事も生き残った450年も経つ由来のものだそうです。
月鉾の一つ前を巡行した孟宗山(もうそうやま)。
日本画家の平山郁夫さんが描かれた「砂漠らくだ行・日」のタペストリーがひと際鮮やかでした。
炎天下の蒸し暑い中、山や鉾を先導する舁き方(かきかた)や曳き方(ひきかた)も大変です。
ときおり、特設の観覧席からうわーっと大きな歓声が上がって山鉾を巡行する皆さんに笑顔と元気が戻ってきました。
ふと、思いました。
今、目の前で巡行を見守る人たちの、おそらく何十倍もいた宵山の若者たち、彼らはいったいどこに行ったんだろう?
宵山の晩、烏丸通(からすまどおり)を中心に山鉾町は屋台で埋め尽くされていました。
日本中の屋台がここに集まっていると思うほど、裸電球の下に、たこ焼きやアイスクリーム、ファーストフードが広がって、そこには若者の熱気が溢れていました。
あの時、大人たちの何十倍もいた中学生や高校生。
観光で京都の名所を訪れても、こんなにたくさんの若者に出会うことはまずありません。
こんなことを想像しました。
炎天下に役目を果たす山鉾町、そして駆け付けた見物客、どちらもこの日は一世一代のハレの日です。
一方、若者はというと……今は ″ 宵山デート ″ が青春の必須時間。
宵山は仲間と過ごす大事な時間です。
でも、やがては彼らも社会に出て、先輩に混じって活躍しはじめます。
その時は、巡行する山鉾を引っ張る「曳き方」や「舁き方」の姿に変身しているのか、肩車をした巡行を愉しむお父さんに変わっているのか……。
京都に幾つもある祭りの夜は、真っ暗闇の不安と期待の中に、未来につながる贈り物が隠れている場所なのかもしれません。