スケッチこぼれ話Ⅴ
『スケッチこぼれ話V』は、第28回『白川が流れる京の街』から、第32回『巨椋池の風景』までを掲載しました。
第28回『白川が流れる京の街』(2023年8月14日投稿)
ブログは、白川の源流がある比叡山からスタートしました。
源流の白川は、祇園の花街を流れる癒しの風景とは違っていました。
濁流が水しぶきをあげる勇ましい川です。
変わらないのは、水の色と川底の白さ。
途中、海岸の砂浜のような風景もご覧になってください。
ブログのはじめには、銀座・数寄屋橋のネオンが出てきます。
ネオンに映る柳は、実は京都の柳と深いつながりがあったんです。
それから、白川の ″ 白い川 ″ の謎解き。
ヒントは、″ 雨に当たると美しい純白色になる白川砂 ″と比叡山の花崗岩。
白川石は、二条城の城石や龍安寺石庭にも使われていました。
今では法律ができて、使うことができない白川石。京都の魅力に一役買っているんですね。
第29回『おばんざいと京都』(2023年8月31日投稿)
「おばんざい」という言葉は、1964年、朝日新聞のコラムにはじめて掲載されました。
ブログの中では、美味しそうなおばんざいが次々に登場します。「夏野菜炊合せ」、「炒りとうふ」、「賀茂なす揚げだし」、「とうもろこしかき揚げ」、「魚出汁にゅうめん」etc.
今回ご紹介した料理は、三条通と木屋町通がぶつかる瀟洒なお店「めなみ」さんです。
https://www.menami.jp/
ところで、おばんざいの世界を探ると、杉本節子さんという料理家に出会います。
京都におばんざいという言葉が生まれた昭和50年代。
子供だった杉本さんは祖母に「うっとこでは、おかずのことをおばんざいて、いわへんの。」と訊ねました。
お祖母さんの回答は、「おかずいうてるねえ、昔から。」とそっけない一言。
こんなお二人のやり取りの中にある、『おばんざいと京都』のお話をたくさんご紹介しています。ぜひ読んでください。
第30回『御所のお引越し』(2023年10月1日投稿)
お話は、この写真からスタートしました。
青龍殿と一緒に、平成26年10月に造られた蹴上(けあげ)にある大舞台です。
舞台に立つと、鞍馬山や鴨川、緑の京都御所を一望することができます。
かつて、桓武天皇と和気清麻呂は、この高台から平安の都を造ることを決めました。794年のことです。
当時の平安京は、こんな様子だったんですよ。
手前の小さな黒枠が羅城門、黄枠とオレンジ枠が西寺と東寺、そして奥の紫枠が天皇のお住まい内裏(だいり)です。(東寺はあの五重塔です。)
羅城門と内裏を結ぶブルーのラインは、幅が85mもあった朱雀大路です。門から内裏までの距離は、3kmから4kmもあったそうです。
ところが、大きな都は1000年以上の間に幾度も火災やいくさで焼失します。天皇はその度に引越しをしました。
実は、この『御所のお引越し』、タイトルを決めてから試行錯誤の連続。
それは、現在の京都御所以外に、その間の引っ越し先は、その痕跡すら残っていなかったので、読者の方に見て頂く写真が少なかったからです。
この写真は、かつての朱雀大路があった道、現在は千本通(せんぼんどおり)と呼ばれています。
立命館大学朱雀キャンパスのこの辺りは、まだ片側2車線ぐらいはあるのですが、壬生御所ノ内町は車がすれ違うこともできないほど、狭く大路の面影はどこにも残されていませんでした。
ブログの中では、そんな今と昔が行ったり来たりしながら進んでいきます。
the Endは、取材の最後に出会ったこの一枚の絵でした。
現在の京都御所の隣にある護王神社。
あの将軍塚の高台に立つ桓武天皇と和気清麻呂の姿が描かれています。
世の中がパンデミックでとても混乱した2023年。
思わず、京都の街を造った二人のヒーローに出会ってみたくなりました。
第31回『嵐電物語』(2023年10月21日投稿)
嵐電(らんでん)は、明治43年(1910年)に開業した路面電車です。
四条大宮と嵐山を結ぶ「嵐山線」、北野白梅町と帷子ノ辻(かたびらのつじ)を結ぶ北野線、2つの線を足してもその営業キロは11kmしかありません。
でも、この短い距離の中に、金閣寺や龍安寺、妙心寺、仁和寺と世界遺産があったり、太秦の映画村や渡月橋で有名な嵐山にも行くことができます。
観光スポット以外にも、魅力的な場所が多いのが嵐電の特徴です。
例えば、このホーム。太秦広隆寺駅のホームですが、民家の玄関がホームと隣り合わせ。
昔流行った「玄関開けたら2分でごはん」を文字って、「玄関開けたら5歩で嵐電!」、そんなユーモラスな風景も見られます。
蚕ノ社(かいこのやしろ)駅、この名前も面白いのですが、駅の近くにある蚕ノ社は、珍しい正三角形の鳥居が見られます。
正三角形は宇宙の中心を現しているとか。まさにパワースポットですね。
車折(くるまざき)神社駅を下車したら、芸能神社にぜひ立ち寄ってください。お気に入りの歌手や俳優さんの玉垣の所で写真撮影がいいかもしれません。
幸運だったのは、嵐山駅近くの喫茶店で知り合った若者から『嵐電』という映画の話を聞けたことでした。
井浦新さんが主役をつとめた『嵐電』。
早速観ました。嵐電の街で暮らす人々の生活がとってもリアルに描かれています。
面白かったのは、嵐電妖怪電車。
それは、観光でこの街を訪れるだけだと、きっと気づかない嵐電の世界でした。
第32回『巨椋池の風景』(2023年11月8日投稿)
巨椋池(おぐらいけ)?? はじめてこの名前を聞かれた方もおられると思います。
巨椋池は、昭和8年(1933年)から始まった干拓事業で無くなった幻の池のことです。
実は、京の都ができた時、巨椋池は、四つの方角の一つ「朱雀(すざく)」を司る重要な池でした。
その頃の巨椋池は、宇治川と木津川、桂川から流れる水をたたえた風光明媚な場所だったと言われています。
貴族の別荘が建ち、魚が豊富に捕れていたそうです。
この2枚の写真は、京都市伏見区の向島西定請(むかいじまにしじょううけ)から久御山(くみやま)に広がる田園風景です。
ここに、東西4km、南北3km、およそ800haの大きな巨椋池がありました。
ブログの中では、その面影を探し、排水機場までの道のりを3時間歩きました。
干拓事業が終わり巨椋池が無くなった後も、写真の排水機場は豪雨から地域を守るため活躍を続けています。
排水機場のそばにある資料室で当時の巨椋池の映像を見ることが出来ました。
南へと行くほど土地が下がっている京都盆地。その終着点にある巨椋池は、何度も水害に見舞われたんです。
豊臣秀吉や時代の為政者によって、巨椋池の地形は幾度となく変更を余儀なくされてきました。
干拓が終わった第二次世界大戦の後、戦後の食糧難を救う京都や大阪の台所としての役割も果たしたようです。
ブログの最後、排水機場のそばにある淀堤を登ると向こう岸に京都競馬場が見えました。
この競馬場の芝の真ん中に、大きな池があるんです。
ずーっと謎だった池が平成11年、2回にわたって調査されました。
そして池の中に、滋賀県の琵琶湖でしか生息しないメンカラスガイやヒメタニシを発見したそうです。
今はそんな水の流れも無くなったのですが、巨椋池があった頃、メンカラスガイやヒメタニシは遠い北の琵琶湖から宇治川を流れてここまで辿り着いたんですね。競馬場の池は、巨椋池の名残りだったんです。
観光ガイドブックには掲載されない巨椋池。その風景は今も京都に残っています。