源氏物語を訪ねて
ⅰ キーンさんと源氏物語
ドナルド・キーン(Donald Keene)さんのお名前を聞かれたことはありますか?
日本文化研究の第一人者として、晩年は日本国籍を取得され、その研究に生涯をささげられた方です。
藤原道長の三女威子(いし)が後一条天皇の中宮(こうごう)となった頃の十二単
1922年、アメリカニューヨーク州ブルックリンの貿易商の家に生まれたキーンさんは、真珠湾攻撃から間もない1942年、コロンビア大学のアメリカ海軍日本語学校で日本語の習得に取り組みました。
当時のアメリカは、戦争後の日本を管理するために日本の制度や文化をマスターしたアメリカ人を養成することが喫緊の課題だったのかもしれません。
そんな青春時代を過ごされたキーンさんは、コロンビア大学で先生をされた後、人生の後半、アメリカから日本へと活動拠点を移します。
90歳ぐらいの頃だと思いますが、あるテレビ番組で、司馬遼太郎さんと対談されている姿をお見かけしました。テーマは、日本文学のことでした。
着物の一枚一枚を袿(うちき)といい、十二単はこの袿を何枚も重ねて着ました。平安時代の後期は5~6枚に落ち着いたそうです。
柔和な表情から話される日本語はとても流暢で、次から次へとエピソードが出てきます。
不思議に感じたのは、アメリカ人として生まれ、アメリカ人として教育を受けたキーンさんなのに、このご年齢で、どうして日本に居を移し文学の研究をされておられるのか、ということでした。
そして、今回のテーマ「源氏物語」について、キーンさんは、『「源氏物語」と私―記念すべき千年紀を前に』の中で、こんな風に書かれています。
「……… 手に入れた本(☆源氏物語)を読み始めた途端、私はそこに描かれている世界にすっかり心を奪われてしまった。
貴族社会の王朝遊び。貝殻の形や色合いの美しさや珍しさを愛でたり、歌を詠じて優劣を競う遊びでした。
その翻訳に快感を覚えたのは、ウェイリーのやや古風で、なんとも優雅な英語の美しさのせいだった。………」
「………この作品に描かれている平安朝の風習は時々、実に奇妙なものに思えた。
特に想像し難かったのは、たとえば相手と恋人になる前に(そして場合によっては恋人になってからも)、男は実際に会ったこともない宮廷の女と恋に落ちることが出来るものなのだろうか。
その女が着ている衣裳の袖(几帳のこちらからはそれしか見えない)が美しい色合いだということだけで、男は一人の女に夢中になれるものだろうか。
平安時代の女性は、大垂髪(おすべらかし=髪を長く垂らしたロングヘア)が主流だったようです。
その理由を理解するには少しばかり時間がかかったが、女がどんな色合いの袖を身につけるかということは、ちょうど女が手紙を書く時にどんな紙を選び、どんな筆跡で書くかということと同じく、彼女の趣味を示すだけでなくて彼女の人格そのものがそこに表われているのだった。
手紙の文面や織物の生地の模様にわずかでも見苦しいものが感じられたら、それはたちどころに男の情熱を冷ますに足りたのである。………」 (新潮社 Foresightから一部抜粋 2007年4月号 https://www.fsight.jp/3363)
菊の着せ綿。(重陽の節句9月9日の前日8日の夕方に、綿を菊の花にかぶせ、翌朝、菊の露に濡れた綿で肌を撫でると老いを捨てると言われたそうです。) 41帖「幻」(まぼろし)
キーンさんの言葉の意味を本当に理解しているかというと心もとないのですが、キーンさんが「奇妙に思えた」感覚は、とても共感するところがありました。
「紫式部」と「源氏物語」。
中学、高校の教科書では、とてもよく出て来た言葉です。
高校生の時に、読書好きの友人がいて、源氏物語のことを話してくれました。
残念ながら(笑)、途中まで聞いて、挫折したというか、どこか自分とは違う世界のお話だと、感じた記憶があります。
もう少し大人になって文学への関心も芽生え、源氏物語を読破しようと意気込んだことがありました。でも、400詰めの原稿用紙で2400枚にもなるというそのボリュームを読むのはとても難関でした……………。
源氏の袿姿(うちきすがた)。一番くつろいだ服装で、人前に出る時にははばかられたそうです。限られた者のみが目にする貴公子のくつろぎの姿ですね。
今回、個人的にハードルの高いこのテーマに少しでも近づこうと、二つの作戦をたてました。
一つは、物語の中に出てくる光源氏と光源氏に関わった人たちゆかりの場所を訪ねながら、物語の臨場感に触れられたらということ。
もう一つは、宇治にある「源氏物語ミュージアム」、西本願寺のそばにある「風俗博物館」の方にお話をお聞きし、物語への理解を深めることでした。
そして、ブログを書き終える頃に、ドナルド・キーンさんの思いに少しでも触れることが出来たらと思っています。
ⅱ 物語のあらすじとその背景
光源氏が誕生した京都御所。源氏は桐壺邸と桐壺更衣(きりつぼのこうい)の間に生まれました。
作者の紫式部がいつ生まれたのか、正確な誕生年は特定できないそうですが、970年から978頃だと言われています。
幼い時に母を亡くし、漢学者の父に育てられ、そのおかげでとても漢文の才能があったようです。
20代後半に藤原宣孝(のぶたか)と結婚しますが、宣孝は3年ほどして疫病で他界します。
その後、紫式部は藤原道長の娘で、一条帝の中宮・彰子(しょうし)の家庭教師をはじめます。
宇治の平等院。源氏のモデルとされる嵯峨天皇の皇子・源融(みなもとのとおる)の別荘があった場所です。
藤原道長という心強いスポンサーを得て、式部は源氏物語を書き始めます。
源氏物語は、54帖(じょう)からなり、全体は三部構成。
第一部の、1帖から33帖は、「光源氏の誕生から39歳の冬」までが書かれています。
第二部の、34帖から41帖は、「光源氏の39歳冬から52歳」、そして、第三部の、42帖から54帖は、「光源氏の死後、子供の薫の14歳から28歳まで」が描かれています。
宇治上神社。「宇治十帖」に登場する光源氏の異母弟・八の宮の住まいがあった場所です。
ところで、この「帖(じょう)という言葉ですが、当時の書物の体裁のことで、折本(用紙を巻かず一定の幅で折り畳む方式の本)を数える単位として用いられていたそうです。
今は、「○○巻」という数え方に集約されています。
それぞれの「帖」には、名前が付けられています。
1帖は「桐壺(きりつぼ)」、2帖は「帚木(ははきぎ)」、3帖は「空蝉(うつせみ)」、4帖は「夕顔(ゆうがお)」、5帖は「若紫(わらむらさき)」………といった感じです。
仁和寺。34帖「若菜上(わかなじょう)」で、朱雀院は女三宮を光源氏に託し、自身は『西山なる御寺』(仁和寺のこと)に出家します。
第一部のあらすじをご紹介します。
桐壺邸の子として生まれた光源氏は、幼い頃に母・桐壺更衣(きりつぼのこうい)を亡くします。
帝の悲しみを慰めるために入内した藤壺(ふじつぼ)に光源氏は育てられ、藤壺を慕うようになります。
思春期に入った光源氏の藤壺への思いは恋心へと変わり、二人の間に生まれた子供は、父帝の子として育てられることになります。
光源氏の華麗な生活は、ここから33帖の「藤裏葉(ふじのうらば)」まで描かれています。
大覚寺の大沢池。晩年の光源氏は、嵯峨院(大覚寺)で2年から3年の時を過ごします。
光源氏は、六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)、空蝉(うつせみ)、夕顔(ゆうがお)、若紫(わかむらさき。藤壺の姪で、後の紫の上)、末摘花(すえつむはな)、朧月夜(おぼろづきよ)、葵の上(あおいのうえ)、花散里(はなちるさと)………さまざまな女性と恋に落ちていきます。
栄華を極める光源氏ですが、ちょっとした失敗もありました。
親しくなった朧月夜は、政敵の右大臣の娘だったため、光源氏は都を追われ、須磨・明石で流離の日々を送らざるを得なくなりました。
嵯峨野にある野々宮神社。10帖「賢木(さかき)」で、源氏への思いを断ち伊勢へ向かう六条御息所を源氏が訪ね、晩秋の時をここで過ごしたといわれています。
源氏26歳の春です。
しかし、その後、朱雀帝の夢に出て来た桐壺亭が源氏の無実を告げたため、光源氏は再び政界に復帰することができます。
やがて、源氏と藤壺の子である冷泉帝が即位すると、源氏は再び勢力を盛り返し、六条院で優雅な生活を送ることになります。
ここまでが、第一部のあらすじです。
ここからのお話は、第二部になるのですが、光源氏が40歳の時、兄の朱雀院が出家し、源氏は朱雀院の末娘・女三の宮を妻として迎えなければいけなくなります。
清凉寺。源氏のモデル源融の山荘があったところでした。
正妻の立場にあった紫の上の憂慮はひとかたならず、病に伏してしまいます。源氏は甲斐甲斐しくも、紫の上の看病に追われます。
ある日、親子ほど年が離れた女三の宮のもとに柏木という青年が忍び込むという事件が起きます。その時、源氏は留守中でした。
三の宮がやがて子供を宿してしまいます。
この頃の40代というのは人生の終わりが近づいていると感じる時期だったのでしょうか。源氏は三宮の出来事に、老いていく自分と、過去の藤壷との過ちの報いを痛切に知らされるのでした。
やがて最愛の紫の上が亡くなり、源氏は出家を決意します。
光源氏が亡くなる41帖は、「雲隠(くもがくれ)」というタイトルなのですが、実は41帖には本文がありません。
(第三部には、光源氏が亡くなった後の子・薫や外孫・匂宮と女性との関係や苦悩が描かれています。)
ⅲ 物語の印象
梨木神社。中川の家があったとされる場所。第2帖「帚木(ははきぎ)」で、源氏が空蝉(うつせみ)と出会った屋敷です。梨木神社は、萩の名所。ピンクの萩の他にも白い萩が見られます。
はじめて源氏物語を読みかじった時、源氏の奔放な私生活は、カナダのキャリアウーマンの恋や成功を描いたハーレクイン・ロマンスのように映りました。
そして、紫式部がいったいどんな思いからこの物語を書いたのか、全く予想ができませんでした。
物語はこの書物が世に出てから、たくさんの研究者が、その「テーマ」について研究をされているようです。
「天台宗の経典60巻になぞらえた」、「一心三観(姿や性質を観察する天台宗の教え)の理を述べた」、「中国の古典に由来する儒教的な価値観」、「もののあはれ」、「そもそも、源氏物語に西洋の文学論で言うところのテーマが存在するのか」………など、いろいろな考え方があるそうです。
嵐山。第18帖「松風(まつかぜ)」で明石の君が住まいとしていました。桜が満開の頃、山はピンク色に染まります。
最近の研究の中にも、「藤原氏全盛の時代に、(藤原)一族が失脚させた源氏を主人公にするのはいかが?」「源氏の恋愛が連戦連勝で、帝位の継承をテーマしたのは、政治に無関心な女性向けの読み物だった」といった説や、「恨みをはらんで失脚した源氏の怨霊を鎮めるため」という説まであります。
紫式部は、本当にどんな思いからこの物語を書き続けたのか………まだまだ真相の解明は続きそうです。
面白いなと思ったのは、「1万年堂出版」という本の中で、国語教師の常田先生が書かれていた内容です。
宇治橋の紫式部像。「宇治十帖」はここを舞台としています。ここには、宇治十帖の碑や、「源氏物語ミュージアム」もあります。
先生は、源氏物語が登場する以前の「物語」は、登場人物の人となりが初めから終わりまで変わらないのに、源氏物語は登場人物が成長し変化していく、と言います。
源氏が若い頃に非常に醜く頑固で不器用な末摘花(すえつむはな)と結ばれた時、源氏は失望しました。
その後、源氏が須磨に謹慎している間も、頑固で不器用な末摘花は、源氏を待っていました。
常田先生は、その場面を、「極貧の中で自分を待っていた末摘花に、源氏は、左遷され近くにいれば不利と離れていった者もいる中、(ずっと待っていた末摘花のことを)人間の値打ちはこんなところにあるのでは、と内面を見つめるようになっていた」と書かれています。
囲碁をする女御を御簾から覗く源氏。(「源氏物語ミュージアム」)この囲碁のシーンは「空蝉」の中に登場します。
そして、「源氏物語では、何かを語る、行動を起こす、その人物の心の微妙な動きを見逃しません。読者もともに、人間の心の淵を覗くことになります。」と書かれていました。
(https://www.10000nen.com/media/28729/)
途切れ途切れにしか読むことがなかった源氏物語も、少しずつ、つなげてみると、登場人物が変わっていく姿に気がつくことがありました。
第一部の光源氏は、若く美貌の持ち主で社会的地位もクレバーな頭脳も持ち合わせ、たくさんの女性に囲まれこの世の春を謳歌します。
光源氏と紫の上。源氏にとって「永遠の女性」藤壷の姪で、容貌、性格、才芸に秀で、後に源氏の正妻となりましたなった。
第二部に入ると、源氏は老いていく自分やまわりと、若かりし頃の自分の写し鏡のような人物が登場し、奔放な生活を送っていた時には感じることのなかった葛藤が次々と生まれるてくるんですね。
誰にでもあるような人生の良い時と悪い時。貴族の社会で華やかな生活を送った光源氏には、その喜びや悲しみの起伏がとても大きかったと思います。
冒頭のドナルド・キーンさんが初めて「源氏物語」に出会ったのは、1940年、ヒトラーの軍隊がノルウェー、デンマーク、オランダ、ベルギー、そしてフランスの半分以上を侵略した年だったそうです。
キーンさんにとって「源氏物語」との出会いは、生涯で最も暗い年の(心の)「避難所」だったと述懐されています。
そしてこんな言葉を残されていました。
「『源氏物語』は読者を惹きつけてやまないし次のページを読みたくさせるが、それは筋の巧妙な展開や、登場人物たちの激しい葛藤がそうさせるのではなくて、そこに一つの社会の美的生活、感情的な生活が見事に再現されているからなのだった。」
キーンさんが感じた「源氏物語」の魅力。それは、日本人の感情の豊かさや ″ きめ細やかさ ″のようなものだったのでしょうか?
P.S.
先日、野球の世界大会(WBC)で日本チームが優勝しました。久しぶりに日本中が歓喜に沸き、とても勇気をいただきました。
優勝と同じくらい嬉しかったのは、選手やファンの振る舞いが世界に報道され、多くの人が ″ 日本人 ″に興味を持ってくれたことです。
もしかしたら、キーンさんは、80年以上も前にそのことに気づいて、日本人の後押しをしてくれたのかもしれません……………。