南禅寺水路閣
南禅寺境内にひっそりと佇む水路閣。染み出た石灰で白化したレンガ造りの建造物。そこには、130年以上も昔の明治の出来事がありました。
ⅰ 青もみじの水路閣
夏の終わり、南禅寺の水路閣を訪れました。イロハモミジは新緑の5月と変わらず青々としています。水路閣は緑に少し埋もれるように立っていました。
苔むしたレンガは所々雑草が生え、長年の風雪で浸み込んだ水分と石灰がアーチを白く覆っていました。「どうしてこんなところにこの橋が?」 頑強な煉瓦造りの建造物に訪れる人はそう思ってしまいます。(写真上;水路閣のアーチ、写真下;神秘的な水路閣の橋脚)
ⅱ 琵琶湖疎水記念館
水路閣から南禅院を仁王門通の方向へ戻った蹴上発電所の先に琵琶湖疎水記念館という建物があります。ずっと疑問だった水路閣のことを記念館の職員の方に聞いてみました。(水路閣の誕生は、簡単ですがこんなイメージでした。)
①水路閣は琵琶湖から水を引く疎水工事の一環として整備された、②その疎水工事は、1885年(明治18年)から5年の歳月をかけて最初の工事が行われた、③疎水の全長は、滋賀県大津市の取水地点から京都市伏見区の一級河川濠川まで約20km、④疎水は水力発電、農業の灌漑、下水の掃流、工業用水、水運に使われた、⑤そして水路閣は疎水から松ヶ崎の方へ分流した一部の水路の役割を果たし、全長93.17m、幅4.06m、水路幅2.42m。(地図は、滋賀報知新聞に掲載された琵琶湖疎水ルート)
職員の方のお話ですと、この水路閣は今も松ヶ崎方面の灌漑のために使われているそうです。水路閣の横に実際に流れている水路へたどり着く階段がありました。上がってみると、今も琵琶湖から流れてくる水を見つけ、なんだか思わず嬉しくなりました。(写真; 水路閣の水は絶え間なく流れています)
ⅲ なぜこんな大工事を?
20kmに及ぶ琵琶湖疎水の大工事。記念館の職員の方はこんな説明をしてくれました。
江戸時代の終わり頃、1853年にペリーが浦賀に来航すると日本はまさにちゃぶ台をひっくり返したような大騒ぎになってしまいました。京都では15代将軍徳川慶喜が二条城で大政奉還を行い、朝廷に政権を返上。1868年明治新政府が東京に樹立されました。
それまでずっと京都御所に天皇のお住まいがあったのに天皇はお公家さん、職人さん、料理人などたくさんの下々の者を連れて東京に行ってしまったのですね。天皇がいなくなった京都は産業も衰退し人口も減少したそうです。
第三代京都府知事の北垣国道(きたがきくにみち)は、京都を復興させようと産業振興のため、今まで実現できなかった琵琶湖から京都に水を引く計画に着手したそうです。でも当時の日本の技術では、トンネルを掘る土木技術も遅れていて責任者となった田邊朔郎(たなべさくろう)はとても苦労をしたようです。(図は琵琶湖疎水縦断面図。記念館ホームページから)
京都市上京区役所のホームページには、当時工事に使ったお金が125万円かかったと記載されています。京都府の年間総予算50万円から60万円をはるかに飛び越えたお金が必要だったことがわかります。その間に工事で亡くなられた方もたくさんいたとのことでした。でも琵琶湖疎水ができたおかげで水力発電もどんどん進み、停滞していた京都の産業は蘇ったそうです。
お寺の境内を通す水路閣の計画は、当時反対も大きかったそうです。大変な時期を乗り越えて今もここを訪れる人に京都の魅力を伝えてくれる水路閣。この水が松ヶ崎方面の灌漑などに使われているのを知るとあらためて先人の偉業に触れた思いでした。
P.S. 記念館のテラスから、ゆったりと流れる岡崎疎水が見えます。まだ春遠いのですが、満開の桜めぐりの十石舟が待ち遠しくなりました。
(写真は、2022桜が満開の記念館前の岡崎疎水『十石舟』)
【琵琶湖疎水記念館】
地下鉄東西線蹴上(けあげ)駅徒歩7分。市バス5系統「岡崎法勝寺町」下車徒歩4分。(京都市左京区南禅寺草川町17)
開館時間 午前9時から午後5時まで(入館時間午後4時30分まで)
https://biwakososui-museum.city.kyoto.lg.jp
☆水路閣がある南禅寺は桜や紅葉の名所です。観光客の方が少なくなる冬でも南禅寺界隈を散策したら、湯豆腐料理で冷えた体を温めるのもいいですね。
旬のおすすめ! 【蹴上インクライン】
琵琶湖疎水計画の中で、高低差が大きいところは船を運航させることができませんでした。インクライン方式を使って台車の上に船を載せてケーブルで引っ張っていた蹴上インクラインです。
郷愁を誘うレール跡は、桜の時期、ウエディングドレスをまとった新婦の撮影スポットにもなっています。