島原という花街
ⅰ 京都の花街
「角屋さん」の玄関先は、京都でよく見かける老舗の料理旅館のようです。赤茶けた建物の傍らにこの建物を物語る碑が幾つか建っています。
JR嵯峨野線は京都を起点とする在来線の中でも、お客さんが多い電車の一つだと思います。
朝夕は、丹波口駅や二条駅を利用するサラリーマンの姿をよく見かけますし、沿線に大学もあるので学生の通学にも利用されています。
でも、何と言っても目を引くのは、観光地・嵐山へ向かう人の多さです。
三つ蔓蔦(みつつるつた)が角屋さんの家紋です。蔦はブドウ科の蔓性落葉樹で、木や岩、家屋に着生して生長するため、家紋としても武家などで好まれていました。
15分ほどで到着する便利さから、日中は観光客で車内はいっぱいです。
ところで、この電車が2つ目の丹波口駅にさしかかるちょっと手前に「角屋(すみや)さん」という建物があるのですが、そのことに気がつく方はあまり多くありません。
今回は、この「角屋さん」が一つのルーツになっている京都の花街のお話です。
ⅱ 花街と舞妓さん
運がいいと舞妓さんに出会えることも。辰巳大明神のある祇園白川は、″京都らしさ″がいっぱい詰まったところです。
京都といえば「芸妓さん、舞妓さん」、「芸妓さん、舞妓さん」と言えば京都。祇園の花見小路や辰巳大明神の石畳をときおりお稽古に通う芸妓さんや舞妓さんの姿を見かけられたら、京都観光の楽しみがまた一つ叶ったと思える瞬間です。
芸妓さん、舞妓さんの一年は、どんな感じなのでしょうか? (ここからは、「芸妓さん、舞妓さん」を「舞妓さん」として表現しました。)
年の初めの1月、舞妓さんは、日ごろお世話になっている関係者のもとを訪ね、一年の精進を誓うそうです。
1月に歌舞練場で催される式では、昨年の優秀な成績を収めた舞妓さんを表彰する「始業式」が行われています。
7日に少し遅い初詣で祇園界隈を歩いていると、祇園甲部や祇園東の歌舞練場へと向かう舞妓さんを見かけることがあります。
北野天満宮の梅が満開の季節、上七軒の舞妓さんたちは梅花祭で大忙しです。
2月の節分の季節、「節分・お化け」と言って、鬼をやり過ごすために舞妓さんが趣向を凝らした扮装をしてお茶屋を回るという風習もあるそうです。
舞妓さんのお仕事は京都の暦をめくるように進んでいきます。
2月25日に北野天満宮の梅花祭で上七軒の舞妓さんは、参拝者にお茶を振舞います。
春、3月から5月にかけて、上七軒の「北野をどり」、祇園甲部の「都をどり」、宮川町の「京をどり」、先斗町の「鴨川をどり」と、舞妓さんは日頃お師匠さんについてお稽古した成果を歌舞練場で華やかに披露します。
第184回、先斗町・鴨川をどりは、2023年5月1日(月)~24日(水)開催されます。(https://www.kamogawa-odori.com)
京都の大きなお祭り、祇園祭の花笠巡行や時代祭の清少納言、紫式部、巴御前にも花街の舞妓さんが多く参加されています。
秋深まる古都には、祇園東の「祇園をどり」が開催されます。
フィナーレに舞妓さんが総出演し、「花の円山 石ただみ 桜吹雪に 舞衣 姿やさしき だらりの帯よ 祇園東に 祇園東に灯がともる………」と唄う、「祇園東小唄」で五花街の最後の「をどり」は幕を閉じるんですね。
12月13日から本格的な迎春の準備に入る京都では、舞妓さんたちもお師匠さんやお茶屋さんを回って一年の感謝を伝えるそうです。
師走は、街の人と同じように舞妓さんも一年の仕事納めに大忙しです。
嵐山の竹林の小径を歩く舞妓さん。(伏見稲荷神社の絵葉書から)
京都にある五花街は、祇園甲部(ぎおんこうぶ)、祇園東(ぎおんひがし)、宮川町(みやがわちょう)、先斗町(ぽんとちょう)、上七軒(かみひちけん)と呼ばれています。
それぞれの花街は歌舞練場をもち、舞妓さんたちのお稽古の場であったり、一般の方に披露する場所になっています。
ただ、この五花街の中に「島原(しまばら)」の名前はありません。
新選組の浪士が京都の街を駆け回っていた頃、テレビドラマの中で時おり耳にする、あの ″島原″ という遊郭、今はどうなっているのでしょうか?
ここからは、島原のお話を「角屋さん」という ″揚屋″さんの建物を覗きながら進めていきたいと思います。
ⅲ 花街・島原
結論から先にお伝えすると、島原は、1976年、京都花街組合連合会を脱会し330年以上続いた花街の歴史に幕を閉じました。
角屋の座敷。障子にはめられている窓ガラスは、今では見かけないもので、外の景色がゆらり揺れて見える造りになっています。
「角屋さん」には、路先案内人になってくれるスタッフの方がいます。建物の中を案内してもらいながら、いろいろなことを聞かせて頂きました。
はじめに島原という花街の誕生秘話です。
1641年(寛永18年)、それまで六条室町にあった遊郭は「島原」に移ることになります。といっても、島原という地名はもともとあった訳ではありません。
幕府の方針変更から行われたこの慌しい移転が、ちょうど4年前に起こった、あの天草四郎時貞で有名な島原・天草の百姓一揆(島原の乱)に例えられ、「島原」の名前が残されているそうです。
新しくできた島原は、今の京都市下京区にある上之町、中之町、中堂寺町、太夫町、下之町、揚屋町あたりに広がっていました。現在その面影を残しているのは、遊郭の入口となっていた大門と、置屋(おきや)の「輪違屋(わちがいや)さん」、「末廣屋(すえひろや)さん」、そして揚屋(あげや)の「角屋さん」だけです。
一階の座敷・金色の襖に孔雀が描かれています。
ここで置屋と揚屋の違いについて少しまとめました。
置屋は、太夫や舞妓さんが置屋のお母さんたちと一緒に寝食を共にし、生活のすべてからお稽古まで学ぶところです。
一方、揚屋には太夫や舞妓さんはいません。だから、「角屋さん」では座敷にお客さんが来られると、置屋さんに連絡して舞妓さんたちを呼んでいました。
今で言うと、置屋さんは、人材派遣会社の役割も果たしていたんですね。
一階の中心にある調理場。商売が繁盛していた頃は、この調理場を料理人が忙しく動き回っていたんだと思います。
一階には写真のような大きな調理場がありました。
大きな釜が幾つも並んで、お客さんが立て込んできてもお待たせすることはなかったようです。
せっせと薪を炊いて料理を作られていたのか、黒光りした天井が往時の様子を物語っているようでした。
あの近江商人が小浜から届けた新鮮なさばも、ここで調理されていたのでしょうか?
「角屋さん」では出来上がったお料理は、主に二階の座敷へと運ばれました。
一階の「網代の間」。天井板を網代組にしているのでそう呼ばれています。
「揚屋」という呼び方は「お客さんも料理も上へ」というスタイルからきているそうです。
ところで、一階にも写真の「網代の間」のような座敷がありました。
蠟燭を灯す蝋台や灯油の行灯で黒くなった壁や天井。
近藤勇や土方歳三も、太夫や舞妓さんと一緒にここで宴を催していたんですね。
新選組が暴れてつけた刀傷
実は最初に案内された玄関口に、新選組が暴れてつけた刀傷(写真)が残っています。
幕末、会津藩から京都の治安を任せられた新選組もよく利用していた「角屋さん」にはそんな逸話が幾つも残っています。ちょっと余談になりますが、新選組は京都守護代・松平容保の家来として尊王攘夷派と戦いました。
多くは浪士で武士の身分ではなかった新選組。すでに武士の時代が終わりを告げようとしていた時代に、武士を守ろうとした姿に、今もゆかりの「壬生寺」や「角屋さん」を訪れるファンが多いそうです。
臥龍松の庭。庭の奥には茶室がありました。
島原では、おもてなしをする舞妓さんの頂点に太夫がいました。
ところで太夫(たゆう)と花魁(おいらん)の違いを聞かれたことはありますか?
太夫は「傾城(けいせい)」と呼ばれ、権勢者が遊宴の席で接待することを許可した芸妓部門の最高位の女性だったそうです。
舞や音曲のほかにも、お茶、お花、和歌、俳諧などの教養を身につけなければいけませんでした。
一方、花魁は芸を披露しないため歌舞音曲を必要としない娼妓部門の最高位だったとされています。
今となっては時代感覚が少し違いますが、一昔前は、いろいろな役割分担があったんですね。
茶室。お茶を嗜むほかに、和歌俳諧の会も催されていました。
帯の結び方も太夫と花魁では違っていました。
太夫は前に 「心」と結ぶらしいのですが、花魁の帯は前に垂らす結び方をしていたそうです。
輪違屋さんの表玄関。
置屋で生活される舞妓さんが一人前になるまでには、とても長い時間の鍛錬が必要でした。
今だと、15歳ぐらいで学校を卒業し舞妓さんを夢見る少女たちは、舞妓さんになる前の期間「仕込み」の期間を経なければいけません。
置屋で先輩のお姉さんと共同生活をしながら、日常生活の行儀作法から、舞のお稽古や着物の着付けなど、舞妓としてデビューするまで一年間、その修行は毎日続くそうです。
そして舞妓となった後も芸事の他、お客さんへの接し方や宴での話題を欠かさないための社会勉強、女性としての魅力を増すための努力など一人前になるための日々は続きます。
先斗町にある歌舞練場。鴨川沿いから見える歌舞練場の前には、春、ベニシダレが満開になります。
5年ほどの時を過ぎ晴れて認められると、舞妓は芸妓になります。その分責任もますので芸妓としての鍛錬の日々がまた続きます。
1873年(明治6年)に花街の象徴「歌舞練場」が開設されると、青柳踊や温習会が上演され、五花街は少しずつ現在の形に近づいていきます。
一方、島原は幕末の1851年(嘉永4年)、大きな火事があって揚屋町以外のほとんどが焼失してしまいました。
舞妓さんたちの拠点となる置屋や揚屋は祇園新地で仮営業をしますが、その後、とうとう島原に戻ることはなかったそうです。
そして1976年、島原は京都花街組合連合会を脱会したんですね。現在の島原には、「輪違屋さん」に花扇太夫・如月太夫・薄雲太夫が在籍、「末廣屋さん」には葵太夫、司太夫が在籍し、格式の高い島原の文化は、今も受け継がれているようでした。
ⅳ 編集後記
物語がたくさん詰まっている「角屋さん」でした。
スタッフの方がこんなエピソードを教えてくれました。
庭の茶室のすぐ向こうにJR嵯峨野線の高架橋が通っています。
第二次世界大戦で日本の戦況が厳しくなった時、鉄道施設はアメリカ軍の空襲を受ける恐れがありました。
鉄道が爆撃で火災になると、すでに老朽化していた「角屋さん」から近隣に類焼すると、警察は建物を壊すように「角屋さん」に通知します。
困った「角屋さん」は、その時、写真の西郷隆盛が使用していた桶を見せたそうです。
「角屋さん」を救った西郷隆盛の桶。
そして、角屋は幕末や明治の英雄たちが過ごした場所だと訴えました。
職務上、「角屋さん」に来られたそのお役人は、それは恐れ多いと上への報告を躊躇します。そうこうしているうちに戦争は終わってしまいました。
「角屋さん」が今残されているのは、ちょっとした人生の偶然だったのかもしれません。
令和3年7月、五花街の「おもてなし文化」は文化庁の日本遺産候補として認定されます。京都の伝統は、遊郭から花街へ、島原から五花街へと少しずつその形や環境を変えていきます。
3年ぶりに戻って来た昨年の「鴨川をどり」(令和四年ポスター)
現在、円安効果もあってか、京都には欧米からたくさんの方が訪れています。金閣寺や清水寺や嵐山は時に日本人よりも外国人の観光客の方が多いほどです。
あまり京都の流儀や作法を知らない外国の方でも、気軽に舞妓さんの踊りやもてなしに触れられたらと思います。
「芸妓さんや舞妓さんが芸の鍛錬を続けられるために、芸を観て楽しむ方がたくさん増えて欲しいですね。」
スタッフの方の、そんな言葉が印象に残りました。