御所のお引越し
ⅰ 都の誕生
その日、午後から天候が崩れるという予報で山道を急いでいました。積乱雲がときおり青空を覆い足元が暗くなります。40分ほど歩いて、ようやくたどり着いた頂上。そこには、こんな景色が広がっていました。
ここ、どこだかわかりますか?
実は東西線の蹴上(けあげ)駅から山道を登った東山の稜線上、華頂山のいただきにある「将軍塚」です。
あまり知られていないのですが、平成26年10月に大護摩堂「青龍殿(せいりゅうでん)」の建立と一緒に、この大舞台は造られました。
桜の季節は、人気の花見スポットでタクシーで乗り付ける観光客も多い場所です。
人影がまばらな舞台を欄干まで進むと、こんなパノラマが広がっていました。
三方を山に囲まれた京都市内です。
写真だと北東の方角に見える鞍馬山から「Yの字」のように賀茂川と高野川が流れ、やがて合流すると鴨川になり、市内へと向かっていきます。
京都の一番の繁華街・四条河原町は、2つの川が交差する少し南あたりです。
写真の左端っこに緑がこんもりとしているのは、御所がある京都御苑です。
機会があったら、ぜひこの大舞台に立って、飛び込んでくる大パノラマを愉しんでください。
そして、今回の『御所のお引越し』は、ここからスタートします。
街中を見渡せる大舞台のすぐそばに、丸い形をした写真の「将軍塚」があります。
その円の直径は20m、高さ2mになります。
794年、桓武天皇(かんむてんのう)は家臣の和気清麻呂(わけのきよまろ)に伴われ、この場所から京都盆地を見渡したそうです。
そして清麻呂の進言を受け入れ、この日、平安の都の長い歴史が始まりました。
実は平安京ができる10年ほど前に現在の向日市、長岡京市のあたりに「長岡京」という都が置かれていたことがあります。(地図のように、西山と桂川にはさまれたところでした。)
宮殿は完成していたのですが、都の造営を任されていた桓武天皇の家臣藤原種継(ふじはらのたねつぐ)が暗殺されるという事件が起きます。
天皇の実子早良親王(さわらしんのう)がこの謀反に関わっていたことで都づくりはついに暗礁に乗り上げてしまったんです。
度重なる飢饉や疫病の流行も天皇の気持ちを暗くしたのだと思います。
そんな時、腹心の清麻呂は桓武天皇に、将軍塚から眺める今の京都市内の様子を見せました。そして、ついに平安遷都は実現したんですね。
和気清麻呂を祀った護王神社は、京都御所の蛤御門(はまぐりごもん)を出たすぐそばにあります。
″ いのしし神社 ″ としてとても有名な神社が、御所のこんなにそばにあるのは、平安京誕生のエピソードときっと無関係ではないんだろうと思います。
ⅱ 平安京の様子
ここからは、京都御所があった平安京の様子をお届けします。
平安京創生館(中京区丸太町通七本松)に展示されている平安京の復元模型をご覧になってください。
1/1000スケールですが、とても大きくて上手く写真に収まりませんでした。
手前に見える黒□マークの羅城門(らじょうもん)をくぐると、右側に東寺(とうじ、オレンジ□マーク)、左側に西寺(さいじ、黄色□マーク)があります。
羅城門は、天皇の住む内裏へと向う一番最初の門です。ちょっと余談ですが、芥川龍之介の小説『羅生門』はここから命名されました。
芥川は「生」という字をあてて、小説の中の ″ 生をめぐる門 ″ を描いたと言われています。
ところで、東寺と言えばこの五重塔、新幹線のアナウンスが″ 京都 ″ を告げると、南の方角に美しい五重塔が見えますね。京都好きが、ほっと心が和む瞬間です。
でも、もう一つの西寺はどこにあるのでしょうか? 実は西寺は今は無くなっていて、その場所に写真の碑が残されています。
火事がいつもどこかであった平安京の時代、シンボルとして造営された東寺と西寺も何度も火災に見舞われ、ついに今残されているのは東寺だけになってしまいました。
細かくて見えにくいのですが、碁盤の目のように張り巡らされたこの地図と先程の復元模型を見比べてみてください。
当時、朱雀大路(すざくおおじ、模型のブルーの2本線)の幅員は85mもあったと言われています。
大路をずっと北に進むと、天皇のお住まいがある大内裏(だいだいり、紫□マーク)にぶつかります。
この距離、およそ4km。平安京はとても大きな都市だったことがわかります。
当時つけられた通りの中には、三条大路や四条大路など、今に面影を残す通りが幾つもあります。
一方、朱雀大路はというと、現在は千本通と名前を変えて写真のように85mあった幅員も1/4ぐらい、場所によっては車がすれ違うほど細くなっていました。
天皇のお住まいがある大内裏には、お住まい(内裏)の他に、たくさんの役所がありました。
その中でも、最も重要なお役所は朝堂院(ちょうどういん)と呼ばれていました。
京都を訪れた時、一度は参拝されたことがある写真の平安神宮は、平安遷都1100年を記念して造られた朝堂院の復元模型です。
絢爛豪華だった平安の都も、長い年月の度重なる火災やいくさで焼失し、天皇のお住まいはその度に引っ越しを繰り返します。
現在の京都御所は、MAPの上京区・京都御苑の中にあります。
天皇のお住まいがこの地に移ったのは、1337年でした。
ここに移ってからも、応仁の乱では街中が焼け野が原となったこともありました。
江戸時代には、内裏の再建が8回も行われたと記録に残っているそうです。
専門家が把握できないほど、都が置かれていた1000年以上の間に、御所のお引越しは何度も何時もあったんですね。
ⅲ 編集後記
ブログの取材がひと段落して東京に戻ると、東京駅の赤煉瓦駅舎にちょうど外灯が灯りました。
この日、東京は久しぶりの快晴で八重洲ミッドタウンも茜色の夕陽に染まっています。
2023年3月にグランドオープンした八重洲ミッドタウンは早くも東京の新名所になりそうな予感です。
ところで、この赤煉瓦の駅舎から行幸通りをずーっと進むと、皇居の和田倉門にぶつかります。
明治2年(1869年)、天皇は、1075年間住んだ京都を離れ、東京へとお引越ししました。
日本は近代国家へと国づくりを進め、今や世界で重要な役割を担う国へと発展しました。
日本を訪れる外国人観光客数も、2023年1月-7月累計で1300万人。コロナ禍前の3200万人を超える日もそんなに遠くないと思います。
京都の護王神社の塀に、こんな絵を見つけました。
それは、剣を左手に右手で街づくりを語りかける桓武天皇の姿です。
天皇の傍らにひざまずく家臣は、和気清麻呂。
あの将軍塚の高台から始まった二人の街づくりは、長く安定した時代を築きました。
もしも清麻呂が生きていたら、今の日本はどんな風に映って見えるのでしょうか?