鴨川納涼床
鴨川の夏の風物詩、鴨川納涼床。いつから始まったのか、調べてみました ‼
ⅰ 神無月
10月は神無月(かんなづき)。「無」は「の」と読んで「神の月」と言うそうです。
全国の八百万(やおよろず)の神様が一部の留守神様を残して出雲大社に会議に出かけてしまうという言い伝え。(神様がいないから、神無月……なんですね。)
京都植物園のコスモスが10日に満開のちょっと前でした。 今年は天候の不順が続いて、人だけでなく草花も大変でしたね。登山をする友人が先日登った白馬岳の紅葉が夏の暑さで少し色づきが良くないとこぼしていました。
そう言えば、秋の七草探しの旅は苦戦続きでした。山上憶良(おまのうえのおくら)が「秋の七草」と詠んだ平安の時代、旧暦の秋は7月から9月だったんですね。(撫子や桔梗の花はなかなか見つけることが難しかったです。)
それでも9月後半に訪れた梨木神社の萩、そして女郎花(おみなえし)が鮮やかな城南宮。初秋の訪れがそこかしこに発見できて良かったです。
梨木神社の萩 ☆神社には白萩も咲いていました。
城南宮の女郎花(おみなえし) ☆城南宮さんは秋の七草の宝庫です。
城南宮 女郎花と尾花(ススキ)
旬の豆知識! 憶良が詠んだ秋の七草
七草は、はぎ(萩)、おばな(尾花)、くず(葛)、なでしこ(撫子)、おみなえし(女郎花)、ふじばかま(藤袴)、ききょう(桔梗)の七種の野草。七草の言われは、奈良時代の初めごろに万葉集の歌人として活躍した山上憶良(ゆまのうえのおくら)が詠んだ2首の歌がもとになっているとのことでした。
『秋の野に 咲きたる花を 指折り(おゆびおり) かき数ふれば 七草(ななくさ)の花』 巻八1537
『萩の花 尾花 葛花 なでしこの花 おみなえし また藤袴(ふじばかま)朝顔の花』 巻八1538
旬のおすすめ! 晴明神社の桔梗守
憶良の歌にある七番目の「朝顔の花」は、植物学者の牧野富太郎先生によると、入谷(いりや)の朝顔祭のアサガオではなく、桔梗だったとのことです。
陰陽師「安倍晴明」で有名な晴明神社には桔梗が咲いている期間、桔梗の刺繡入りの御守が置かれています。
ⅱ 夕闇に浮かぶ鴨川納涼床
3年ぶりに再開された鴨川納涼床が10月31日に今年の営業を終えます。
ちょうど、8月16日の五山の送り火の翌日、三条大橋から四条大橋の方角へ遊歩道を歩いていたら、夕闇に納涼床の灯りがぽーっと浮かびあがりました。
裸電球や提燈の灯り、ガラス戸越しに照らされる奥座敷……本当に色々な明りが鴨川の水面に映って、まるでスクリーンから飛び出してきた舞台装置のようでした。
料理やお酒を酌み交わし楽しそうに談笑している表情や声。(本当は夕闇の向こう岸の団らんは全く見えないのですが……笑)
ⅲ 納涼床の歴史
徳川幕府が政権をとる少し前の豊臣政権の時代、秀吉は三条大橋や五条大橋の架け替えを行い、河原は見世物や物売りで賑わったそうです。
「京都鴨川納涼組合」の資料では、それが納涼床の始まりだったとのことでした。
絵師白幡洋三郎が描いた「四条河原夕涼其一」には、当時の鴨川納涼床の様子が想像できます。今とは川幅が違う感じですが、浅瀬にたくさんのお茶屋さんの床机が置かれて今と変わらぬ賑わいを感じます。(京都鴨川納涼床協同組合 2008- kyoto-kamogawa-nouryouyuka-kyoudoukumiai.)
明治になって7月と8月に納涼床を出すことが定着したらしいのです。
ただ、右岸と左岸の両方にあった床は、鴨川運河の開削工事(1894)と京阪電車鴨東線延伸(1915)のために、左岸(川端通側)の床が姿を消したとのことです。
そして昭和の時代、室戸台風やその後の集中豪雨で納涼床は壊滅的な被害を受け、第二次世界大戦には納涼床の灯は消えてしまいました。
戦後、昭和27年、納涼床の文化風習を未来に伝えるために「納涼床許可基準」が出来、現在の鴨川納涼床の景観が保たれてきたとのことでした。
納涼床の反対側に先斗町(ぽんとちょう)と呼ばれている花街があります。町家の佇まいをした狭い路地に鴨川をどりの提燈が灯されていました。ふっと幕末の長州藩や薩摩藩の志士たちが納涼床や花街を楽しむ姿を想像してみました。
ⅳ ウォーターフロントの先駆け、鴨川納涼床
夏に京都を訪れる観光客は、鴨川の川床料理や貴船の川床料理を楽しみにしています。同じ川床でもその読み方は前者が「かわゆか」、後者が「かわどこ」と読んでその響きの違いをどこか楽しんでいるようです。
最近、首都圏を中心にタワーマンションやアウトレットな、ど大きな住宅・ショッピングセンター開発が進んでいます。
その開発の中に水辺のエリアに建てられる建物を多く見かけます。水、水の流れ、水辺の生活、自然や生き物……日本人の暮らしに水はとても大切なんですね。
昔、日本史の先生が、平家物語の白河法皇の話をしていたことを思い出しました。
「鴨川の水、双六の賽、山法師……」
栄華を極めた白河法皇が世の中で自分の思い通りにならないものをそう歌に詠んだそうです。
治水工事や技術の進歩で今となっては、暴れ川だった鴨川を知ることは少し難しくなりました。
3年ぶりの納涼床は、平安時代からずっと今日まで、鴨川に畏敬と親しみを持ち続けてきた京都人の心意気だと感じました。