寺町京極の歴史
四条通から御池通まで南北につながる、寺町の商店街を散策しました。
ⅰ 寺町界隈
寺町通は、京都市内を東西に走る五条通と鞍馬口通の間、およそ4.6kmを南北に走る通りの名前です。
その寺町通の中で、寺町京極商店街は四条通から三条通に広がり、その先、御池通にぶつかるところまでが寺町商店街になります。 (GoogleMAPに朱色の線でなぞってみました。)
四条大橋を西へ歩くと「TERAMACHI」と書かれた看板をすぐに見つけられます。
全天候型のアーケードの両脇に、一つ一つのお店が独立して立ち並ぶ光景は、全国にある他の商店街と全く変わらない佇まいです。
イギリスの都市計画の専門家バリー・シェルトンは、この日本のアーケード商店街と入口にあるゲートの関係を、神社の参道と鳥居に例えました。
シェルトンの研究によってアーケード商店街の魅力は世界に発信されたんですね。
ところで寺町の商店街には、他の商店街にはない魅力がもう一つあります。それは、400年以上も前からあった生活道具を扱うお店と、今の生活に必要な雑貨やサービスが一つのアーケードの中で不思議に調和し買物客を楽しませてくれることです。
どうしてこんな商店街が出来上がったのでしょうか? 商店街が作られた歴史を少し調べてみました。
ⅱ 寺町通の歴史
👈 昭和のレトロな感じがするお店
寺町の商店街がある寺町通は、平安時代には東京極大路(ひがしきょうごくおおじ)と呼ばれていました。
「きょうごく」という響きはあまり聞きなれないのですが、「都のはて」(京終=きょうはて)という意味があったそうです。東西南北には、それぞれ東京極大路、西京極大路、南京極大路(九条大路)、北京極大路(一条大路)という通りがありました。
👈 京都のおみやげいっぱいです
都の繁栄を支えたこの東西南北の大路ですが、残念なことに1467年に始まった応仁の乱で京都の街が焼け野原となり荒廃していきます。
合戦が勃発したのが東京極大路の鞍馬口に近い上御霊神社だったので、神社に近い東京極の大路は街並みがほとんど焼失してしまいます。
👈 奥にもいろいろなスペースがありそう
荒廃した東京極大路ですが、1590年、豊臣秀吉の京都大改造によって、「寺町通」として生まれ変わります。
秀吉はかつての大路に京都のお寺を80ほど集めました。それが今の商店街の原型だとされています。
👈 ユニークなたこ焼き屋さん、見つけました
寺町京極商店街振興組合のホームページによると、お寺と一緒に、位牌・櫛・書物・石塔・数珠・鋏(はさみ)箱・文庫・仏師・筆屋さんなどが増えていった様子を伺い知ることができます。
(詳細は、https://www.kyoto-teramachi.or.jp/ をご覧ください。)
👈 定番のパチンコ屋さんも商店街の色調とどこか似ていました
お寺に関係した商売の発展とともに、張貫細工・拵脇差・唐革細工・紙細工・象牙細工・煙管・琴・三味線の職人さんもこの界隈ではじまりました。
「拵脇差」の漢字はあまり見慣れないのですが、「こしらえわきざし」と読むそうです。時代劇で武士が腰にさしている長い本差と一緒に差している短めの刀のことです。
👈 レトロなすき焼きやさん、昭和3年創業
やがて、明治になると、京都の街にも文明開化の波が押し寄せます。寺町の商店街にも、西洋菓子屋さんや写真館が登場しました。
文明開化という言葉を『西洋事情』という書物の中で初めて使った福沢諭吉は、ちょっと前まで都があった京都の変わり様をどんな風に見ていたのでしょうか。
👈 創業明治6年のすき焼き、三嶋亭さん。
文明開化と言えば、すき焼き。その発祥は京都だと言われています。「牛肉すき焼」の看板が印象的な三嶋亭さんも明治6年創業です。
鉄鍋に牛脂を引き、肉を先に焼いてから野菜を甘辛醤油で煮ていただく関西のすき焼き。当時は画期的な出来事だったんですね。
ⅲ 商店街の密集地
👈 新京極の錦天満宮
寺町の歴史から、少し代わって商店街の周りをもう少し覗いてみようと思います。
四条通から寺町京極商店街に入るアーケードの少し東寄りに新京極商店街があります。10代や20代の若者向けのお店が多く、修学旅行の季節には学生がお土産を買う姿をよく見かける所です。
二つの商店街は南北に並んでいて、時おり、東西の小道で写真のようにつながっています。
👈 上野のあめ横を彷彿させる若者のお店
新京極を訪れる若者を意識してか、上野のあめ横を彷彿させる若者に人気のアイテムや流行の洋服が店頭や壁に所狭しと飾られています。
👈 壁いっぱいのリュック
週末になると、新京極商店街からの若者でお店は大盛況でした。
👈京の台所、錦市場
南北に広がる寺町京極商店街を四条通から少し歩くと、東西に広がる錦市場商店街とぶつかります。
錦市場は390mほどの商店街に、京野菜、お豆腐、佃煮、漬物、蒲鉾、干物など京都の豊富な食材が所狭しと並べられ、「京の台所」として他府県からの買物客にも大人気のスポットです。
👈 全長800メートルのアーケード、三条商店街
寺町の商店街は、もう一つ、三条通で三条商店街とも交差しています。
商店街の始まりは大正の頃と寺町や錦市場に比べると新しいのですが、全長800mのアーケードはこの地域では類を見ないほど。
明治以降、庶民の街として生まれ変わった京都には、たくさん家が建ち立ち並び、三条商店街も東西にずーっと伸びていったんですね。
👈 版画がお店のデコレーションの大書堂さん
寺町には読書好きな京都人を引き付ける老舗の本屋さんもありました。
大書堂さんの表ガラスには、どこかで見かけたことのある版画や古文書が飾られています。
商店街の大きなアーケードの中で雨や陽ざしから守れているから、大切な作品もこんな風に展示できるんですね。
👈 神田や神保町のような古書店街?
京都の電車に乗ると、文庫本や新書を読んでいる方を多く見かけます。
そんな風景が、どこか新鮮に感じます。(東京だと、スマートフォンを片手にメールしたり、ゲームにこうじる人が多いから? )京都の街は時間がゆっくりと流れている気がします。
👈 いつも行列の天丼まきのさん
【 個性のある飲食店もたくさん!】
天丼まきのさんの前には、いつも若い人の列。豪快な天丼が大人気です。
この日もお昼の時間はとっくに過ぎていましたが、待っている人の列が切れることはありませんでした。
👈 模型がユニークな小籠包のお店
小籠包の模型がユニークな手作り上海焼き小籠包の専門店です。
薄い皮を噛むと肉汁がじゅわっと流れ出してやけどを心配しながら、ついつい頬張ってしまう小籠包。
👈 懐かしい定食が勢ぞろい‼
年越しそばを食べたいと思って暖簾を潜った常盤さん。
中に入って少し驚いたのは、お客さんは近所にお住まいの方や地元のサラリーマン風の人ばかり。観光化している商店街にしては少し意外な感じでした。
でも、食べてみて納得。家庭的な料金なのに、とっても美味しいんです。メニューはお蕎麦だけでなく、定食物がたくさんありました。
👈 提燈が幻想的な、矢田地蔵尊
寺町の商店街には、そのルーツが所々に見られます。
矢田地蔵尊も秀吉の都市計画によって今の下京区あたりから移されたそうです。
秀吉がお寺をここに集めたのは、税の徴収を効率的に進めることだったと言われています。
👈 玄米茶発祥の茶舗、蓬莱堂さん
それから、寺町には別の役割もありました。80近くのお寺は、その東側に作られた防衛のための「御土居(おどい)」に沿って建てられています。東の方角から攻めてくる敵から京都を守るために、お寺は80も南北に建てられたんですね。
老舗の蓬莱堂茶舗さんには、暖簾をくぐるご年配の女性の姿が多く見かけられました。
👈 ゆったりと時間の流れる永松仏具屋さんの店内
永松仏具店さんは慶長8年(1603年)の創業だとお聞きしました。永松仏具屋さんの歴史は、商店街の歴史と一緒です。
👈 寺町が発祥の鳩居堂さん
寛文3年(1663年)の創業。
漢方薬や薬の原材料を扱われる薬種商から薫香や線香の製造・販売、和の生活雑貨へと広がっています。
鳩居堂さんと言えば、銀座だとばかり思っていました。 創業地は「京都市中京区寺町姉小路上ル」。この寺町に誕生したんですね。
👈 レトロな喫茶、Smartさん
レトロな雰囲気のSmart Coffeeさん。タマゴサンドイッチ、ハムサンドイッチとフレンチトーストがお勧めです。
珈琲焙煎機の写真を撮らせていただきました。昭和7年に創業されたという店内は青春時代にタイムスリップしたようでした。
編集後記
アウトレットモールやショッピングセンターが買物の主流になると、「商店街」という響きはどこかノスタルジックなイメージだけが先行してしまいます。でも、寺町の商店街を訪れ、その歴史や文化に触れ、またご商売のお話を聞くうちに、商店街はそんなイメージを飛び越え、全く新しい空間に映っていました。
400年以上も前に日本人の生活を支えていた品物に、今も変わらず買物客が集う伝統の不思議さ。
若者をターゲットにしている商店街のご主人も、10年、50年、100年たったら、その仲間入りをしている………想像は幾重にも広がります。
イギリスの学者バリー・シェルトンも、きっと、そこまでは気づいていなかったと思います。笑