高瀬川の魅力
ⅰ 桜の咲く頃
四条河原町の交差点を祇園花街の方角へ歩くと高瀬川という小さな川があります。
川底も浅く、水はゆっくりと流れていて、気を付けて見ていないと見落としてしまいそうな小川。
木屋町通に沿って流れる高瀬川の幅員は、4mほど、水深は数十cmしかありません。
でも、この高瀬川は、春、桜が満開になる頃、どこからともなく集まった人でいっぱいになります。
夜のとばりが下りると、木屋町や先斗町の花街から出てきた酔客の楽しそうな笑い声は、高瀬川のあちらこちらで聞こえてきます。
往時の高瀬川のことを知ってか知らずか、京都人も観光で京都を訪れる人も、いつの間にか、ここに吸い寄せられていきます。
今回は、その高瀬川を二条大橋のたもとから五条大橋まで散策しました。
ⅱ 高瀬川を辿る
高瀬川は、二条大橋のたもとで「みそそぎ川」から取水し、南へ流れ、十条通の上流で鴨川に合流するおよそ9.7kmの運河です。
少しわかりづらいかもしれませんが、地図は、高瀬川がみそそぎ川から取水する付近のものです。
二条大橋から三条大橋へと南北に走るブルーの太いラインは鴨川です。
その鴨川のすぐ左にブルーの細いラインが見えますか? ブルーのラインは2本あると思います。2本のラインのうち、鴨川寄りが「みそそぎ川」、その左が、今回のお話の「高瀬川」です。
江戸時代のはじめの頃、1611年に、角倉了以・素庵親子は、この人工の河川を開削しました。当時の高瀬川は、もっと長い川で、南で鴨川を横断し濠川と合流、伏見港を経て宇治川まで続いていました。
どうして角倉了以は高瀬川を造ったかというと、当時、豊臣秀吉によって進められていた方広寺の大仏建立のため、たくさんの木材を東山茶屋町(五条通近く)まで舟で運ぶ必要があったからでした。
陸上の交通輸送が馬や荷車に限られていた当時、高瀬川の水運輸送はとても活躍したそうです。高瀬川は、やがて京都と大阪を結ぶ経済の大動脈となりました。
角倉了以が高瀬川を開削した頃は、運河の水は直接、鴨川から引いていました。その後、大正時代に鴨川と高瀬川の間にもう一本、みそそぎ川という運河が出来て、高瀬川の水は、鴨川 ➡ みそそぎ川 ➡ 高瀬川 の順番で流れるようになりました。
写真の御影石でできた5,6mほどの小さな橋の下をみそそぎ川は流れています。(その左に見える大きな川が鴨川です。)
ちょっと余談になりますが、どうして、みそぞぎ川なんて造ったの? と疑問が湧くと思います。実はこの川を南に下ると、鴨川納涼床の床下に辿り着きます。大正の頃、木屋町や先斗町の茶屋の人たちは、夏の納涼床の床下に鴨川の清水を通したいと要望し実現したプロジェクトだったそうです。
ところで、先程の地図の高瀬川はみそそぎ川とつながっていないように見えます。
実は、がんこ高瀬川二条苑さん(https://gu-takasegawa.gorp.jp)という料理屋の奥にみそそぎ川の取水口があるので、地図では川の流れが見えなくなっています。
このお店は、かつて高瀬川の開削をした角倉了以の別邸があったところで、そんな歴史のエピソードは、「京都歴史探訪」や「ブラタモリ」などでも紹介されました。
高瀬川の水運が盛んだった頃の高瀬舟が今も写真の一之舟入に置かれています。当時の川幅は8mほどあったらしく水量も多かったようです。
幅が2m、長さが13mの平たい舟には15石積(2.25トン)も木材や生活物資を積めました。(お米一石の重さが140㎏から150㎏でした)
高瀬舟は一日に多い時は180隻も動いていたそうです。二条通から四条通にかけては、荷物の上げ下ろしや舟の方向転換のための舟入(ふないり)と呼ばれる小さな港が9つありました。
現在は一之舟入を除いて全部埋められています。高瀬川が流れる木屋町通の川沿いには、曳子(船曳き人夫)が人力で曳いて歩くための曳舟道が設けられていたそうです。高瀬舟は人が舟を引っ張っていたんですね。
花街、先斗町
高瀬川が流れる木屋町通は、三条大橋から四条大橋の間に、飲食店や雑貨店がたくさんあります。
二つの大橋の間に、木屋町通と並んでいる先斗町(ぽんとちょう)と呼ばれる花街があります。
高瀬川のたもとに立つ佐久間象山や大村益次郎の碑を見ると、幕末に歴史に名を遺した志士たちも、ここでひと時を過ごしたんだなあーと思ってしまいます。
鴨川をどりの提燈の灯りが先斗町のお店の暖簾や石畳を照らし、どこからともなく、志士たちの宴の声が聞こえてきそうでした。
ベニシダレと先斗町歌舞練場(2021.3.29)
写真の山吹色の建物は、先斗町歌舞練場です。(鴨川沿いから撮りました。)
あの建物の向こう側に高瀬川は流れているのですが、5月の鴨川をどりが開催される頃、高瀬川沿いには、踊りのお稽古に通う舞妓さんや芸子さんの姿も時々見かけられます。
京都には、祇󠄀園甲部、宮川町、先斗町、上七軒、祇󠄀園東という5つの花街があるそうですが、高瀬川のそばに花街があることも、この界隈の魅力だと思います。
賑やかな四条通を過ぎると、高瀬川は静かな街並みの中を流れていきます。
夕暮れ時、ここを訪れるとおそらく近所に住まわれている方だと思います、のんびりと散歩されている姿が印象的でした。
(ほんの100mも戻らない四条通は人の波なので、ひっそりとした、この高瀬川の風情が好きな方も多いんですね。)
それでも歴史のある高瀬川には、鮒清さんや鶴清さんなど、老舗の旅館や料理屋が所々に見られます。
鶴清さんの静かな旅館の玄関の反対側(鴨川に面している方)は鶴清さんの大きな納涼床があって5月から10月のシーズンは、納涼を楽しむ人でいっぱいです。(http://www.tsuruse.co.jp)
ふっと、森鴎外の小説『高瀬舟』を思い出しました。
角倉了以が高瀬川を開削したずっと後の時代かもしれませんが、京都の罪人は流刑となるため、高瀬舟に乗せられ、ずっと下って、大阪へと運ばれて行ったそうです。(小説『高瀬舟」は、護送を命じられ舟に乗り込んだ京都町奉行の同心羽田庄兵衛と罪人喜助の心のやり取りです。)
ところで、静かだったこの界隈も少しずつ変わってきています。
夕暮れ時の高瀬川沿いには、モダンなカフェやレストランの灯りがそこかしこから漏れていました。
四条通はどこのレストランもいっぱいだから、高瀬川のせせらぎを楽しみながら、食事ができるスポットはこれからも増えていくのかなと感じます。
そう言えば、こんな素敵な町家ホテルも誕生しています。この辺りに女性同士やカップルの方が増えてきているのは、そんなところにあるのかもしれません。
(https://kyoto-takasegawabettei.com)
ⅲ 編集後記 ―もしも高瀬川がなかったらー
高瀬川の流域には、現在も材木町や塩屋町などの町名があります。そうした名前に、かつて京都と伏見を結ぶ主要な物流手段として繁栄した高瀬川の往時を偲ぶことができます。
明治になって琵琶湖疎水が京都市内をめぐるようになると、輸送物資の役割分担によって高瀬川の輸送量は次第に減少していきました。そして、1920年に高瀬川の水運は廃止されます。
『銅駝(どうだ)資料館だより』(令和3年5月9日発行)の「都市計画道路・河原町成立事情」☆の中に、こんなことが書かれていました。(☆京都大学文学研究科 白木正俊先生著述)
桜が満開の一之舟入。朝、高瀬川の水面に陽がさして綺麗です(2022.4)
高瀬川の水運が廃止された1920年頃、京都の市内は、市電が走り自動車が普及し始めていたそうです。
そのため、道路を拡幅し南北の交通を活発にしなければいけなくなり、国の内務省は高瀬川が流れる少し西にある河原町通を拡張するという案を、京都市に提案します。
折からの風で桜吹雪に(2022.4)
ところが、1919年12月25日に開催された京都市区改正委員会では、内務省が提出した河原町案を否決し、代わりに高瀬川を暗渠(あんきょ)☆として木屋町通を拡張する案を可決します。(☆通路などに利用するため、ふたをすること)
木屋町通周辺の住民や先斗町の花街関係者を中心に原案の河原町通案への変更を求める激しい反対運動は、大運動に発展していったそうです。
大きな住民運動の結果、1922年6月9日の委員会は、河原町通案24票、木屋町通案13票、当初の原案通り、河原町通りが拡張されることになり、高瀬川の流れる木屋町通はそのまま残されることになりました。
あっという間に、高瀬川は桜の絨毯になりました(2022.4)
もしも、あの時、高瀬川が暗渠になっていたら………。
ちょっとだけ、そんなことを想像してみました。
東京に渋谷川という川があって、暗渠となった場所に若者が集まり楽しそうに会話する姿を見かけます。昔の渋谷川の姿は知らないのですが、トレンディな街の元気な風景は見ている方にも刺激になります。
高瀬川はどうかというと、100年前に、大きな住民運動があって、今、この風景が、残されていること……………やっぱり、暗渠にならなくて良かったですね。
もうすぐ、京都新聞さんから「2023桜開花情報」が発表されます。自称 ″予想屋″ も、良く外れる、桜の満開日。今年は絶対に的中させたいと思います。笑