巨椋池の風景
ⅰ 巨椋池の風景
この2枚の写真は、京都市伏見区の向島西定請(むかいじまにしじょううけ)から久御山(くみやま)に広がる田園風景です。
ずーっと、どこまでも続く田んぼ。
黄金色の稲穂がこうべを垂れ、訪れた10月上旬、稲刈りも少しずつ始まっていました。
向島駅から久御山にある排水機場まで1時間ちょっと、田園風景は途切れることなく続いています。
京都にこんな場所がまだ残っていたんですね。
そして、ここに80年ぐらい前で、巨椋池(おぐらいけ)という大きな池があっことを聞くと、少し不思議な感覚になります。
池の大きさは、東西4km、南北3km。およそ800haの面積は、甲子園球場200個分に相当する池だったそうです。
今回のブログ『巨椋池の風景』は、在りし日の巨椋池の面影を訪ねるところから始まりました。
一般の記録があまり残されていない巨椋池を知るため、最初に宇治市歴史資料館を訪ねました。
(shiryokan@city.uji.kyoto.jp)
いろいろなお話を聞くうちに、久御山にある排水機場まで行くことになり、その道中、飛び込んできた景色が写真の田園風景です。
ところで、排水機場って何?と思われる方もいると思います。そのことはブログの後半まで待っていてください。
ⅱ 巨椋池の歴史
ここからは、巨椋池の歴史を写真や絵の中でお届けします。
その昔、万葉集の柿本人麻呂の歌に詠まれた「巨椋の入江」は、水深が浅く穏やかな水面が広がる大きな池だったと言われています。
平安京ができた頃、巨椋池は地図のように、都の南を守る「朱雀(すざく)」として大切な役目を担っていました。
また、巨椋池は、南のかつての平城京と平安京をつなぐ重要な交通の要所でもありました。
琵琶湖から流れてくる宇治川と、南の木津川、そして北から桂川が巨椋池にその水をたたえ、風光明媚な巨椋池のまわりには、貴族の別荘も多かったといいます。
この絵は、排水機場のそばにある展示室に掲載されていたものです。
巨椋池に注ぐ宇治川のほとりには、源氏物語の「宇治十帖」の舞台が数多くあり、橋姫(はしひめ)、宿木(やどりぎ)、椎本(しいがもと)、浮舟(うきふね)など、物語に登場するヒロインが優雅な暮らしをおくった所でした。
中世の時代、戦国武将にとって、巨椋池と3つの河川は、戦の重要な場所にもなっていました。
水陸交通の要衝として陣地をとりたい武将たちは、巨椋池のまわりで合戦を繰り広げます。
巨椋池のまわりに向島城、槇島城、淀城などお城が多いのもそのためです。
やがて天下を統一した豊臣秀吉は、巨椋池を見下ろす伏見の景勝の地に伏見城を構え、城下町を築きます。
地図のブルーの部分は、秀吉の頃の巨椋池や河川を表しています。
秀吉が造った槇島堤(まきしまつつみ)や淀堤によって、伏見と大阪は水運で結ばれることになりました。
一方、巨椋池と宇治川は分離され、池は昔からの形を少しずつ変えていくことになります。
写真は、宇治市歴史資料館に展示されている巨椋池の漁で使われていた道具の数々です。
浅い淡水池だった巨椋池では、漁が盛んにおこなわれ、付近では農作も営まれていました。
一方、3つの河川がそばを流れる巨椋池では、増水時、膨大な量の水が池に流れ込み、池のまわりは洪水の常習地帯でもありました。
豊臣秀吉がつくった槇島堤も伏見の町を洪水から守るためだったのですが、もともと低地だった巨椋池の周辺は木津川や桂川からの逆流などもあり、水害は5年を待たずに繰り返されたといいます。
そんな巨椋池を救うため、1905年(明治39年)、南郷洗堰(なんごうあらいぜき)が完成します。琵琶湖から宇治川への流量が調整されたことで、かつてのような水害も減っていきました。
そして、1906年(明治39年)、3つの河川と完全に切り離された巨椋池は、川の水が流れ込まない、本当の「池」になったんですね。
これで水害の歴史から解放されたかに見えた巨椋池ですが、水の循環を失った池は別の問題を引き起こします。
付近の生活排水が巨椋池に流れ込み、蚊の大量発生やマラリアなどの風土病が社会問題になったんです。
死滅湖となってしまった巨椋池を救うため、次の救世主となったのが干拓事業でした。
1933年(昭和8年)から1941年(昭和16年)、9年の歳月をかけた干拓事業の結果、巨椋池は写真のような634haの農地に生まれ変わります。(写真は、排水場管理協議会H18.9撮影資料から)
聖護院大根、賀茂なす、海老芋、九条ねぎ、伏見とうがらし………京都の伝統野菜が次々に栽培される農地へと大変身を図ったんです。
巨椋池が農地へと生まれ変わった時、日本は第二次世界大戦の真っ最中。
かつて、平安時代の貴族たちがリゾート地として過ごした巨椋池は、戦後、京都や大阪への食料供給に重要な役割を果たすことになります。
でも、巨椋池の戦いはまだ終わっていなかったんですね。
食糧難の日本を助けたかつての巨椋池ですが、1953年の台風13号、1965年の台風24号、1986年と、干拓田は何度も洪水に見舞われます。
1986年の記録的な豪雨では、写真のように干拓田の3分の1が湛水しました。
もともと低地にある干拓田は、台風や大雨に見舞われるたびに、湛水した水が引くのに一か月もかかり、干拓田の稲は全部腐敗するという大惨事が続きました。
実は、巨椋池の干拓事業が始まった1933年から豪雨などで流れ込む水を排出するため、排水機場が造られていました。
度重なる水害を防ぐため、排水機場は設備の更新を繰り返します。
1972年に造られたこの久御山排水場も、2005年にパワーアップしたものです。
毎秒80㎥をくみ上げるポンプは、25mプールを6秒間で満杯にする能力があって、これで今までのような水害から街や干拓田を守ることができるようになりました。
ⅲ 編集後記
排水機場の展示室を出て急な淀堤を登ると、向こう岸に京都競馬場が見えました。
競馬ファンなら誰でもが知っている、あの「過酷な淀の3000m」がある競馬場です。
メジロマックイーン、ナリタブライアン、マヤノトップガン、デープインパクト………数々の名馬が死闘を繰り広げました。
実はここに巨椋池に関係したエピソードがあります。
それは、ターフの真中に広がる大きな池。(図は、JRAホームページから)
この池が、どうして競馬場の真中にできてしまったのか?
長い間、謎だったこの池を調査するため、京都府は平成11年、2回にわたって大掛かりな調査を実施しました。
両性爬虫類の専門家、貝・甲殻類の専門家、淡水魚の専門家、昆虫の専門家………様々な分野から調査が行われたそうです。
その結果、琵琶湖でしか見られないメンカラスガイやヒメタニシなどが競馬場の池に生息していることが報告されました。
専門家はこうした状況から、競馬場の池も、低湿地帯の巨椋池に宇治川、木津川、桂川から流れ込み、数々の池がつくられた一つだったと推測しました。
農業土木学会誌(第66巻第6号金子、小田先生)に『巨椋池干拓を考える』という報告があります。
その中に、干拓事業から50年以上が経った1996年(平成8年)に行われた巨椋池のイメージアンケートが掲載されていました。
巨椋池があった場所で暮らす人たちの声には、干拓が「農作物供給や、環境の浄化に役立った」という声の他に、池があった頃の「美しい風景、生き物の成育の場、憩いの場」というコメントもありました。
取材中、たくさんの農家の方からお話を聞くことができました。
日に焼けた物静かな表情で、はじめは怪訝そうにこちらを見ておられた方も、巨椋池の話になると、少し表情を緩め、やがてこちらが聞いていないことまで教えてくれたのが印象的です。
観光ガイドブックでは紹介されないこの池は、京都の街に暮らす人にとって、今も心に残る風景なんですね。