京都に城壁があった!
ⅰ 城壁の魅力
パンデミックが落ち着き、世界に日常が戻ってきています。国際世界観光機関(UNWTO)が集計した2023年第3四半期の世界の海外旅行者数も、パンデミック前の91%の水準まで回復しているようでした。
そう言えば、昨年訪れた写真の伏見稲荷にも、外国人観光客が目立ちました。
人気の嵐山や金閣寺、清水寺にも、また多くの外国人が訪れています。
ところで、世界の観光地を見渡すと、やっぱり一番の人気はヨーロッパのようです。
特に世界遺産を巡るツアーは人気で、メルヘンチックな城や城壁を巡るコースは特に人気があるとか。
この2枚の写真は、フランス・カルカッソンヌの城壁都市です。
テレビで活躍されている御髭がトレードマークの千田嘉博先生が書かれた『世界の城壁都市』を読むと、城壁都市が観光地の断然人気になっているのも頷けます。
民族や国の歴史が長いヨーロッパには、カルカッソンヌの他にも、ドイツのネルトリンゲン、イタリア領のサンマリノ、ギリシャのロドス島など、かつての城壁に囲まれた都市がたくさんあります。
いつか訪れてみたいお城の都市。千田先生の本で予習しておくと、きっと楽しみも倍増します。
ところで、京都にも城壁があったことをご存知でしょうか?
それは、京都市内をぐるっと囲み「御土居(おどい)」と呼ばれ、ある時代の中でとても意味があるものでした。
ヨーロッパの石垣のような堅牢なものとは少し違って、土を固めた土塁と堀で出来ていたのですが、ただ、そのスケールを聞くとちょっと驚いてしまいます。
(※2枚の写真は、『世界の城塞都市』開発社 千田嘉博著と、https://www.hankyu-travel.com/heritage/france/carcassone.php 阪急交通社資料から )
ⅱ 御土居の成り立ち
京都市内の地図をご覧になってください。「御土居」があったとされる場所に緑のラインを引いてみました。
南端は東寺あたりから北端は北区紫竹の賀茂川中学校までの8.5km、東端は現在の河原町通りから西端は山陰本線の円町駅まで3.5km。
「御土居」の全長は、22.5kmもありました。
「御土居」で囲まれたあたりは、現在の上京区、中京区、下京区になります。
ここは、鎌倉時代に「洛中(らくちゅう)」と呼ばれ、「京都の市街」を表していました。
そうすると、「洛中」の外は?
そうです、「洛外」といいます。歴史の教科書に載っていた、あの「洛中洛外図屏風」の洛中と洛外のことです。
全長が22.5kmの「御土居」を造ったのは、当時、天下を統一した豊臣秀吉。
1590年に、京都を復興させるために行った大規模な都市計画の1つだったようです。
秀吉が天下を統一した時に造営した城郭「聚楽第(じゅらくだい)」は、ちょうど「御土居」の真ん中にありました。
ⅲ 御土居跡を辿る
「御土居」は造られた当初、「土居掘」と呼ばれていました。「御土居」の断面はこんな感じだったようです。
基底部が20m、頂部が5m、高さは5mの台形で、そこに10mから20mぐらいの堀がめぐらされていたと言われています。
『京都スケッチ』は、ほとんど現存していないという「御土居」跡を四条の河原町通から辿って見ることにしました。
今回のコースは、昔、街道と結ばれる要所だった「粟田口(あわたぐち)」、「大原口」、「鞍馬口」、「長坂口」の近くを通って、北野天満宮がゴールです。
ちょっと、この写真をご覧ください。
四条河原町の交差点のところにあったとされる、高さ5mの「御土居」をオレンジ色の壁にしてみました。
バスの高さは3mぐらいだと思いますが、「御土居」で四条通の先にあるはずの大橋や祇園の花街、八坂神社はすっかり見えなくなっています。
本当はこんな視界が広がるはずですが、「御土居」は全く閉ざされた要塞だったのかもしれません。
史実によると、「御土居」が出来たため、洛中と洛外を行き来するのは、「粟田口」や「伏見口」の七口(ななくち)に限られ、京都の街の人はその通行に、とても不自由したそうです。
どうして、こんな高い「壁」を秀吉は造ったのか?
それは、他国の侵略から京を守るためだったと言われています。
街道とつながる七口だけを残して、あとは「御土居」で通行を遮断すると、例えば四条大橋も必要なくなったんですね。
八坂さんへの参拝は、遠回りして、「粟田口」からお参りしなければいけなかったとか。
それから、秀吉が「御土居」と一緒に進めた寺社の集約にも面白いことが発見できます。
それは、京都で一番歴史の古い寺町京極商店街のお話。
この商店街は、先程の河原町通の「御土居」の少し西にあります。
商店街の東側(御土居より)には、写真の矢田寺や火除天満宮、天性寺、本能寺など、お寺がとても多いんです。
秀吉が「御土居」を造った当時は、ここにお寺が集められ、その敷地がとても広いので、もし敵が「御土居」を超えて攻め込んできても、次の防衛線にお寺を使ったんだと言われています。
さて、「大原口」を過ぎ加茂街道を歩くと、「御土居」の遺構に出会うことが出来ます。
本満寺墓所裏側の御土居跡
一見、どこでも見かけるような塀ですが、ここは「大原口」から10分ほど北に歩いた本満寺さんというお寺の墓所の石垣です。
今は石垣で固められているのですが、「御土居」の名残りだと言われています。
そう言えば、賀茂川沿いのこの辺りにも、本満寺、佛陀寺、十念寺、阿弥陀寺、西光寺とお寺が多いことに気がつきました。
大宮土居町の「御土居」跡は、フェンスで囲まれていました。
大宮土居町の御土居跡
少し物々しい感じがしますが、保存のためにこうしておくことで、今でも「御土居」があった時の様子を想像することができます。
左のこんもりした緩やかな起伏が「御土居」、谷のようにくぼんだ所に、「堀」があったんだと思われます。
鷹峯旧土居町の「御土居」は史跡公園になっていました。
鷹峯旧土居町三番地
大宮土居町や鷹峰旧土居町、実は、このあたりには「土居町」と名前がついた地名が幾つも出てきます。
後で調べて見ると、明治になって「御土居」が壊された後、当時の方が、そこを土居町と名付けたようでした。
紫野西土居町の御土居
紫野西土居町の「御土居」は、住宅街の中にポツンと残されていました。
大正時代の1930年になると、多くが壊されてしまった「御土居」の保護運動が活発になって、9カ所が国の史跡として残されたらしく、紫野土居町の「御土居」は住宅街の中に碑が建てられ今日に至っています。
この平野鳥居前町の「御土居」はユニークです。
平野鳥居前町の御土居跡
そばに寄って見ると、「御土居」の前に写真の石仏が並べられています。
「御土居」の中から出て来たものらしいのですが、当時の人は、いったいどんな目的で石仏を「御土居」に入れたのでしょうか?
紙屋川
「長坂口」を過ぎると、「御土居」跡の西側に紙屋川(かみやがわ)が流れています。
河原町通のところの「御土居」が鴨川を「堀」の役割としていたように、こちらは紙屋川がその役割を果たします。
秀吉は、京都を敵の侵入から防ぐために、自然の条件を総動員して「御土居」を完成させたことがうかがえます。
ⅳ 編集後記~御土居のその後~
今回の「御土居」を辿る終着点は北野天満宮です。
驚くことに、「御土居」は天満宮さんの境内にありました。
そこは、紅葉のシーズン、400本のモミジが見られる人気の紅葉スポットです。
モミジは「御土居」全体を覆い、遊歩道は「御土居」の上の部分、散り始めたモミジが一面に覆うのは「御土居」の側面のところです。
高さは10mちょっとあるでしょうか?
「堀」の方へ降りて見ると、紙屋川にもオレンジや黄色のモミジが見られました。
秀吉が造った「御土居」は徳川政権の江戸時代もほぼ残され、当時の人も、天満宮さんのモミジを愉しんだんでしょうね。
さて、「御土居」のその後は……………
明治になって近代化が進むと土地の私有化も本格化し、「御土居」のあった場所は次々と壊され開発が進みます。
ただ、大正時代の1930年、「御土居」の保護運動が起こり、先程の9つが史跡として保存されることになりました。
秀吉が「御土居」を造った1590年は、戦国武将が群雄割拠し、戦に明け暮れる時代でした。
それから、400年ちょっと。
世界中には、まだ「壁」を造ろうとしている人がいます。日本人の「御土居」は歴史の1ページになって、今は、日常の憩いの場所に変わっていました。