路地裏探訪
ⅰ 少年の日の記憶
こんな風景をどこかで見かけた記憶はありませんか?
子供の頃。
通学路、駄菓子屋さんやお風呂屋さんへの通り道、友だちと隠れ家での遊び………。
夕暮れ時、狭い路地からカレーの匂いがぷーんとしてくると、お腹がペコペコの少年は一目散に家へと走りました。
今回の『路地裏探訪』は、あの日の思い出とどこか重なる路地の探検企画です。
たくさんある京都の路地のほんの一部しかご紹介できませんが、気になる路地裏があったら、ぜひ探検に出かけてみてください。
京都には、″ 路地 ″ と呼ばれる場所がたくさんあります。
平成24年7月に京都市が作成した「京都市細街路対策指針」によると、幅が1.8m未満の道は3,410本、1.8m以上4m未満の道は9,550本もあったそうです。
どうしてこんなにたくさんの路地ができてしまったのでしょう?
一説には、こんな事情があったようです。
その昔、京都の都は中国の長安を真似て造られました。
都の中には朱雀大路や三条大路に代表する大きな幅の道路が碁盤の目のように配置されたそうです。
当時、貴族や都人が暮らすには整然として綺麗な街並みの平安京。
でも、年月を重ねると商売人や職人さんの生活する場所を確保しないといけなくなります。
道幅が何十mもある大路は反対側に渡るのも大変なので、人の行き来もしづらいですね。便利な生活を求めて大きな道路と道路の間に、細かい路を蜘蛛の巣のように広げていったのかもしれません。
ⅱ 撞木図子と膏薬図子
それでは、『路地裏探訪』へ。
この難しい2つの漢字、撞木図子(しゅもくずし)と膏薬図子(こうやくずし)と読みます。
はじめに、撞木図子。路地があるのは、市内で一番大きなビジネス街・四条烏丸のほんの目と鼻の先でした。夜は居酒屋さんやバーが軒を連ね、仕事帰りのサラリーマンがちょっと一杯ひっかけて帰る憩いのスポットです。
ノスタルジックな雰囲気は地元の人を引き寄せる隠れ家かと思いきや、外国人の行きつけのバーもあったりして、意外にインターナショナルな空間でした。
ところで、路地のことを地元では「ろーじ」と呼んだりします。
それから撞木図子の「図子」。路地と同じ意味ですが、通りと通りを結ぶ狭い路という意味があるそうです。
「撞木」って?? ちょっと聞きなれない言葉ですが、この路地がT字型をしていて、お寺で鐘を鳴らす時に使う撞木に似ているため、そう呼ばれるようになったとか。
そして、膏薬図子(こうやくずし)。
昔の四条大路(四条通)と一つ南の綾小路の間にある細い路が膏薬図子です。
今も多くの町家が残っていて、風情を愉しむにはもってこいの路地です。
その昔、ここに空也上人の念仏道場がありました。
940年の天慶の乱の時、戦死した平将門の首がさらされ、そのことで世の中に天変地異が相次いだことがあります。
空也上人は、供養のため道場に塚をたてたそうです。
膏薬(こうやく)の呼び名は、「空也供養」がなまって現在の名前になったようです。
膏薬図子には、あの「おばんざい」で有名な料理家・杉本節子さんの生家もあります。(https://www.sugimotoke.or.jp/)
ⅲ 路地の宝物探し
『路地裏探訪』は、普段見慣れないものに出会える瞬間です。
玄関先に祇園祭の粽(ちまき)を見つけた骨董屋さん。暖簾をくぐると、骨董好きにはたまらない器が所狭しと置かれていました。
食材が色とりどりに並べられているのは錦小路です。
ここも路地ですが、 ″ 京都人の台所 ″錦市場があるところ。
ガイドブックで広く紹介され、今では外国人観光客の方が多いような路地でした。
路地の玄関先に粽と並んでよく見かけるのが、「笑門」です。
「笑う門には福来たる」。
昔、伊勢を旅したスサノオノミコトが日が暮れ泊まるところがなく困っていました。
蘇民将来(そみんしょうらい)は貧しい我が家にスサノオノミコトを招き手厚くもてなし、その事に感謝したスサノオは蘇民に茅の輪を授けたといいます。
祇園祭の粽にも「蘇民将来子孫也」の紙札が付けられていて、路地に息づく庶民文化を垣間見ることが出来ます。
ちなみに、「蘇民将来子孫也」には、「私も蘇民の子孫です。だから、神様、我が家を守って下さいね。」という願いが込められているとのこと。
それから、昔どこかで見た懐かしい物に出会えるのも路地の面白さ。
この蛇口。
ずいぶん使い込んですっかり錆びていますが、今もうなぎ屋さんの現役。
地下水が豊富な京都には、こんな昔からの設備がたくさん残っています。
住居表示の下に描かれた絵を見かけられたことはありませんか?
明治の中頃に創業した「森下仁丹」のマークです。
ちょっと面白いなと思ったのは、この犬矢来(いぬやらい)。
料理屋さんや旅館の軒下には、写真のように割竹で作られた犬矢来が多く見かけられます。
漆喰の壁や京町家の建築に犬矢来はとても似合っていますね。
どうしてこんな形のものが置かれたかというと、その昔、馬や牛車がはねた泥で外壁が傷つくのでそれを防ぐためだったとか。
今も犬や猫の放尿から外壁を守る目的に一役買っています。最近では、写真のようなちょっとモダンな犬矢来も見かけるようになりました。
路地裏は、ずーっと昔から続いている暮らしを、あらためて記憶の中から引っ張り出してくれる玉手箱みたいなものかもしれません。
ⅳ 石塀小路
路地というと、京都で有名な観光スポットは石塀小路。
この景観が生まれたのは、明治の終わりから大正の初めの頃。そんなに昔ではないんです。
当時、そばの高台寺近くを流れる菊渓(きくたに)川が大雨で増水すると、土砂と鉄砲水がこの一帯に流れ込み一帯の住宅は大変でした。
写真のように人の背丈ほどもある石塀を造って川の増水から街を守った。石塀小路の名前の由来です。
小路に入ると、明治や大正時代にタイムスリップしたような不思議な感覚。
頑丈そうな石畳は、昭和の時代まで走っていた京都市電の敷石が使われています。
小路の両側には料亭や旅館、バーが建ち並び、映画界が華やかかりし頃、石原裕次郎さんや勝新太郎さんもこの祇園の奥座敷を愉しまれたとか。
石塀小路の雰囲気を味わった後は、高台寺のねねの道や清水の参道へ。
ついつい京都らしさを欲張ってしまいがちな魅力的な路地でした。
Ⅴ 編集後記
最後は、花街の路地をお届けします。かつて幕末の強者や明治の元勲も酒を酌み交わした花街。
京都には五花街といって、5つの花街があります。
写真は、その一つ、先斗町。
「先斗町」と石に刻まれたこの路地の奥に花街が続きます。
この路地がちょっと他の路地と違うのは、高瀬川が流れる木屋町通と納涼床で有名な鴨川に挟まれていること。
ところで、先斗町という漢字、「ぽんとちょう」と読みます。
この珍しい呼び名は、ポルトガル語の「ponta(先)」や「ponte(橋)」に由来するとか。その昔、人々の住まいがこの界隈ばかり集中していたので、少しやっかみもあったからか、「先斗(さきばか)り」と呼ばれたという説もあります。
面白いのは、路地の脇に幾つも路地があること。
お店の明りが奥から洩れて来るこの路地は17番。
細い路地の向こう側についつい入っていきい衝動にかられます。
そして、5番路地。
中には番号がない路地もあるので路地裏探検はなかなか気が抜けません。
ちょっと、おまけ編です。
祇園祭の山鉾町の路地をご覧ください。
はじめにご紹介した撞木図子と膏薬図子の周りには、祇園祭の山や鉾を管理する山鉾町があります。
宵山の晩、駒形提燈の明りに路地裏はいつもと違う顔に見えました。
さて、『路地裏探訪』いかがでしたでしょうか?
少年の日の、あのワクワク感。大人になってもどこかに持っていたいなって思いますね。